Challenged という言葉

最近読んだ『週刊ポスト』で、challenged という言葉を知った。あなた【誰】、知ってましたか。

『週刊ポスト』2000/10/20号の「竹村健一の世界の読み方」に、竹村氏と社会福祉法人プロップ・ステーションの竹中ナミ理事長との対談が載っており、その中に challenged という言葉が紹介されていたのだ。冒頭部分を少し長くなるが引用する。

「神様から挑戦される人々」

竹村 プロップ・ステーションのキャッチフレーズは「チャレンジドを納税者にできる日本」だそうですね。このチャレンジド(challenged)って、どういう意味ですか?

竹中 近年、アメリカで用いられるようになった障害者を指す造語です。「神様に挑戦するという運命を与えられた人たち」というポジティブな意味を込め、こう呼んでいます。ちなみに障害者を納税者にするというのは、ケネディ大統領の選挙公約だったんです。

竹村 つまり障害者の人たちも、仕事をする機会があれば、収入を得、税金が払えると?

竹中 そうです。IT(情報技術)のコンピュータ・ネットワークなどを活用すれば、重度の障害のために家族の介護を受けている人でも、きちんと勉強し、技術を磨くチャンスが生じ、何らかの仕事ができるようになる。中には技術的に非常に高度な仕事ができる人も出てくる。それを私たちは活動を通じて実証してきました。

竹村 戦国時代の武将・山中鹿之介(しかのすけ)が人間的により成長するために、「我に七難八苦(しちなんはちく)を与えたまえ」と月に祈った故事を思い出させるね。障害者にはつらいことも多いと思う。それだけに、「神様に目をかけてもらっているのだ」「何くそ、負けないぞ」という立場で生きていくべきだという考えに、私は非常に共鳴する。まさに現在の福祉に対する逆発想ですね。

(以下略)

プロップ・ステーションの活動に興味のある向きは、プロップ・ステーションのホームページへどうぞ。上記の対談の全文も掲載されている。

挑戦されている? 挑戦している?

障害者を challenged だとすることは、僕にとっては、納得のいく考え方だ。竹村氏あるいは週刊ポストの編集者は「神様から挑戦される人々」と訳している。僕なら「神様から試みられている人々」と訳すところかな。

しかし竹中理事長は「神様に挑戦するという運命を与えられた人たち」と言っている。challenge するのは神ではなくて人だ。文法的には誤訳じゃないの、とも思うのだが、おそらく、意図的な、いわゆる「超訳」だろう。神から challenge されているがために challenge せざるを得ない人々、という意味で。

「チャレンジド」という言葉で Web をスキャンしたら、こんなのが引っかかった。

チャレンジド

「障害者」という呼び方はなんとかならないだろうかという声がよく聞かれます。「障害」というのは、呼ばれる人達にとっても、決して感じのいいものではないでしょう。

最近、「チャレンジド」という言葉が障害者を意味するものとして使われ始めました。初めてこの表現を聞いた時に、私は挑戦者という意味の「チャレンジャー」というほうがいいのに、どうして「チャレンジド」と受け身形になっているのか疑問でした。神戸で重い障害者のためにパソコンを使っての在宅就労を進めている竹中ナミさん達が「チャレンジド」を使い始めた最初のグループなので、彼女に会った時に尋ねてみました。

「神様から挑戦すべきことを与えられた人達という意味なんですよ」と竹中さんは説明してくれました。なるほど、いろいろなハンディキャップを神様から与えられて試されている、いわば神様から選ばれた人達と考えればいいのか。私も納得がいきました。

(以下略)

1998年10月号掲載

誰だろうと思って辿っていったら、浅野史郎宮城県知事だった。知事の随筆「助走」の中の一つである。ふうん【謎】。しかし、1998年10月か。もう二年も前から使われていたのですか。

婉曲表現?

この言葉の発祥地であるアメリカでは、しかし、challenged という言葉は単なる婉曲表現になってしまったらしい。ちょっと Web を走査してみた所では、physically disabled とか physically handicapped とかの単なる言い換えとして physically challenged という風に使われている場合が多いようだ。そこには、「チャレンジド」という言葉を使い始めている日本の人たちに見られる思い入れは、既に無いように感じられる。

中には、こんなのもある。

理解力の面で challenged な人のためのHTML

HTMLをすばやく習得したいのかい? 君がテレビばっかり見ていて、ミリ秒単位の集中力しかなくて、読書なんかは貴重な時間の浪費だと考えているなら、このページこそは君のためのものだ

このページは HTML の基本を人間にとって可能な限り速く教えるものだ -- 以下のリンクを使えば、君が本当に関心のある部分へとスキップして進むことだって出来る。

HTML for the Conceptually Challenged

そして、こんなのも。

資金的に challenged な人のためのイタリア旅行

何 ?!? 今年はイタリアへ旅行する経済的余裕が無い、って? 大丈夫! そこで、このページの出番だ、、、。この "資金的に challenged な人のためのイタリア旅行" こそ、イタリアに行くことの次に来る良策なのである。

Tour of Italy for the Financially Challenged

Fool, idiot と書かずに conceptually challenged と書き、poor に替えて financially challenged と書いている。婉曲表現を揶揄する語感も含めて、日本語で「ブス」を「容貌の不自由な女の人」と言い換えるのと同じことだろう。つまり、challenged は「の不自由な人」というのと良く似た言葉として使われているのだと思う。

言い換えの歴史(?)

アメリカで障害者を指す言葉がどのように言い換えられてきたかについては、このようなページがある。

Q: 私は40代ですが、生まれてから今までほとんどの間、移動するのに車椅子を使ってきました。その間、私は、私を叙述しようと試みる数多くの言葉が流行っては廃れるのを見てきました(いや、聞いてきました、でしょうか)。

最初、私は cripple でした。次に私は crippled でした。次に私は special でした。次に私は handicapped でした。次に私は disabled でした。次に私は challenged でした。次に私は differntly abled でした。

私の質問は、あなたはどの用語が望ましいとお考えですか、ということです。そして、正直なところ、それでどういう違いが生ずるのでしょうか。

Some Interesting Thoughts on Being Handicapped

上記の内容だけでも、challenged という言葉のアメリカにおける使われ方をある程度は想像することが出来るように思う。

言葉 - 意味? 語感? 文脈?

そして、以下がこの質問に対する答えだ。答えているのは、Chava Willig Levy という作家。なるべく正確に翻訳したいと思うが、間違うかもしれない。出来れば、原文に直接あたって欲しい。そして、誤訳に気付いた方は教えてくださるよう、お願いする。

A: あなたの最初の質問が択一式問題だとすると、選択肢は以下のようになりますね:

  1. a cripple
  2. crippled
  3. special
  4. handicapped
  5. disabled
  6. challenged
  7. differently abled

私が選ぶとすれば:

  • h. 上記のどれでもない

どうしてか? それは、私は、言葉というものはどうでも良いものではない、言葉は私たちが認めたがるより以上に多くの方法で私たちの考え方を表明するものだ、と思うからです。"Cripple" という言葉を取り上げましょう。私が出会った "cripple" という言葉の最も適切な用法は、私の読んでいる地方新聞の第一面に架かっていた見出しでした。「ブリザードが街を CRIPPLE した。」 私は大喜びしたのを覚えています。「やっと誰かが 'cripple' の意味するところを理解してくれた」と。で、それはどういう意味か? 行き詰まらせること、その場に立ち止まらせることです。何と言っても、Merriam-Webster Dictionary に拠ると、cripple の古英語の語源は creep(這う)なのですから。あなたはどうか知りませんが、私の障害は - 重い障害ですが - 私を立ち往生させたことはありません。

もしあなたが私の言葉の批評は神経過敏の兆候だと考えるなら、次のことを確認してください。上記の辞書は cripple という動詞を「軍務に服する能力を奪う、または、力、有効性あるいは[ここに注目]完全さを奪う」と定義しています。さあ、もしそれが cripple の意味だとすると、その言葉が私やあなたに当てはまると考えるなら、それはお門違いでしょう。

さて、スペクトルの反対側には、"special" があります。"Cripple" と違って、"special" は誉め言葉のように聞こえますよね。まあ、そう急がずに。もう一度、辞書に当ってみると、"special" が「何らかの普通でない性質によって他と区別される、特にある面で優秀な」と定義されているのを見出します。うん、これは誉め言葉のようです。しかし、肢体が麻痺していることや、目が見えないことや、耳が聞えないことは優秀さの形でしょうか、それ自体として誉め言葉に値するものでしょうか。私はそうだとは思いません。もちろん、劣悪さの形でもありませんし、侮辱に値するものでもありませんが。ここにあるのは婉曲表現です。気に障ったり何か不快なものを示唆したりする表現を、受け入れやすく不快感を与えない表現で代用しているのです。さあ、あなたはどうか知りませんが、私の障害は気に障るものでも不快なものでもありませんので、婉曲表現は私にとっては気分を害する不快なものです。(当然、このとおりの批評が "special"、"challenged"、そして "differently abled" に対して同じように当てはまります。)

この結果、"handicapped" と "disabled" が残ります。これらは、上記の選択肢の中では、はるかに問題の少ない用語です。最近では "disabled" の方が政治的に正しい言葉【politically correct word】とされています。何故そうなのかは私には決して理解できないでしょう。こういう場面を想像してください。交通情報のスイッチを入れると、こういう情報が聞えてきます。「タッペン・ジー橋を迂回してください。故障した【disabled】大型トラックによって90分の渋滞が生じています。」そして、こういう場面を考えてください。ニュースのスイッチを入れると政治コメンテーターの評論が聞えてきます。「ジョー・ブルックスは背が低く、太っていて、禿げ頭かもしれません。けれども、市長選では、そういう欠点が彼を不利にする【handicap】ことはありません。」私の理解するところでは、何かが故障している【disabled】と、それは少しも動けないのです。しかし、何か(例えば馬)または誰か(例えばあなた)がハンデを負っている【handicapped】ときは、馬(またはあなた)は抵抗力に打ち勝たねばならず、そのためにゆっくりとしか進めないかも知れませんが、馬(またはあなた)はゴールまで行き着くのです。

「上記のどれでもない」はどうでしょう。そうですね、もし私がその空欄を埋めねばならないとしたら、私はあなた自身の言葉をそのまま使います。あなたの質問の最初の文を見てみましょう。「私は40代ですが、生まれてから今までほとんどの間、移動するのに車椅子を使ってきました。」そう言ったときに、あなたは何をしているのでしょうか。あなたは、私が定義的なラベルと呼んでいるもの(人を定義する言葉)を避けて、機能的なラベル(その人がどのように機能するかを述べる言葉)を選んでいるのです。最も肝腎なことは、これは「である【to be】」という動詞 と、「をする【to do】」または「を持つ【to have】」という動詞の違いだと言うことです。「である」という動詞は、人が何であるかを定義します(a cripple であるとか、special であるとか、handicapped であるとか、disabled であるとか、challenged であるとか、ちょっと勘弁して欲しいけれど、differently abled であるとか)。それに対して、「をする」または「を持つ」という動詞は、人が何をするかを述べたり(移動するのに盲導犬を使うとか、びっこをひいて歩くとか、松葉杖を使うとか、二年生のレベルで本を読むとか、手話で会話するとか)、何を持っているかを述べたり(障害を持っているとか、癲癇を持っているとか、血友病に罹っているとか、筋ジストロフィーを患っているとか、脳性麻痺を持っているとか、ダウン症候群に罹っているとか、多発性硬化症を持っているとか)するのです。

但し書き。この考え方で私は満足しています。けれど、それは、私が、blind【目が見えない】、deaf【耳が聞こえない】、mentally retarded【精神発達が遅れている】とか、さらには、disabled や hadicapped というような言葉を全く使わないという意味ではありません。そのような言葉も、それが結び付けられる人を私が忘れていない限りにおいて、まったく問題ありません。例を挙げましょう。

  • ○ 私の隣人であるデービッド・ロスは知恵遅れである。
  • × 私たちの地区にも知恵遅れがいる。
  • ○ 私の上司であるシェリルは盲人である。
  • × 私たちの会社に盲人を雇用すべきである。

正直なところ、これでどういう違いが生ずるのでしょうか。言葉は本当に問題なのでしょうか。このことに関するあなたの考えを知りたいと思います。本当に。

Chava Willig Levy Some Interesting Thoughts on Being Handicapped

興味があったので全文を訳した。

著者の言っていることに対して何かを言わなければならないと思う。いくらか思うことがあるような気がするのだが、明確な言葉にならない。

僕としては、challenged が著者にとっては不快な婉曲表現であることに、最も興味を惹かれる。おそらく、アメリカ人にとっては、challenged という言葉は「神から(障害に打ち克つ力があると)見込まれて選ばれた」という含意が強いのだと思う。それは容易に「お世辞」というものに転化する言葉なのだ。

しかし、、、

『神への告発』

障害と神ということで思い出す本がある。『神への告発』 箙田鶴子(えびらたづこ)著、筑摩書房 1977/06 発行。

宮永久人という人がこの本を次のように紹介している。

著者の重度の脳性マヒの女性としての慟哭の半生記であり、障害者差別の告発の書です。脳性マヒの女性として生まれたが故に、親兄弟を含めて周囲の人びとからどんなにいやがられ、差別を受けてきたかがあからさまに記されています。大学時代に一度読み、共感を覚えました。残念なことに今は品切れです。

宮永久人 「書棚から」

僕がこの本を読んだのも大学時代だった。おそらく、発行された年だったと思う。手離してしまったため、今は手許にない。そして、宮永さんの言うように、現在、この本を書店で買い求めることは出来ない。出版元でも品切れのようである。

ところで、僕がこの本を読んで受けた感想はかなり異なる。正直に言うと、共感を覚えることは出来なかった。

宮永さんは、著者は障害者差別を告発していると紹介している。そういう読み方も出来るのかもしれない。しかし、僕には、著者は障害者差別をする者たちを神に向かって告発しているのではなく、自分を障害者の境遇におとしめたことに関して神を告発しているように思えた。

僕の知る限りでは、ウェブ上でこの本に論及した文書は、上記の宮永さんの他には、あと一つ、加藤勝彦という人の評論があるだけである。そして、加藤さんの記述の方が、僕の記憶しているこの本の内容に近い。

(前略)

かくして「私」は県立の教護施設に入れられて10年間を過ごす。成人女子だけの寮で、排便するにも遮蔽物もなく、全くプライバシーのない世界である。寮生のほとんどが重度の精神障害、知的障害の重複者で、正常な判断ができる者は「私」を入れて数人しかいない。無論、人間並処遇など絶無である。「私」は彼ら(となぜか同性を呼んでいる)を看て、自分も含めた「在らざる人間」を造りたもうた神を呪詛し、告発せずにはいられなかった。また彼らは性本能を剥き出しにしていた。ここでも「私」は「真直に光る瞳」でつぶさに管理者やボランティアたちの偽善欺瞞を暴いていき、寮生たちの面倒も看るようになる。

しかし、彼らを理解し同情もするが、やはり「私」は彼らとは異なった存在であるという意識が行間から読み取れる。同性を「彼ら」と呼んでいるのもその表れであろうし、施設側の非人間的扱いにもほとんど抗議らしい抗議もしていない。

(中略)

孤立無援、重度障害の「私」が唯一残された拠り所は、明晰な頭脳と名門の出という誇りの矜持であった。なればこそ筆舌に尽くし難い艱難を克服できた。しかし、1歩もそこからは出られなかった。なぜならば、我々障害者の多くに見られる、身体障害というものにあまりにもこだわって、外界のこと一切をまず疑ってかからないではいられない用心ぶかさからである。これは一篇の回顧録である。読み終えてもこれだけの内容から、作者のしみじみとした想いは全く伝わってこなかった。代わって眼前に浮かぶのは、艱難に打ち克った一人の気位の高い障害者の姿のみである。

加藤勝彦 「文学にみる障害者像 箙田鶴子著『神への告発』―ある自画像―」

Google で検索したところ、他にいくつか見つかった。

中島虎彦さんによる書評沼田哲史さんによる評論、『神への告発』を再読して

神に向って文句を言う

『神への告発』から僕が学んだことは、「神に向って文句を言ってはいけない」という事だった。

この本を読んだ頃、僕自身が、神を呪詛したい苦々しい気分に囚われて、身動きの出来ない泥沼に陥っていた。今となっては、何がそんなに問題だったのだろうか、とも思えるが、当時、自分自身の行動を思うように律することが出来ず、意志薄弱な怠惰な性癖に対して、やり場のない悶々とした怒りを覚えていた。

『神への告発』という本は、その題名だけで、僕の関心を引いたのだった。そうだ、僕は、僕自身ではどうにも解決できない重荷を負わされているのだ。確かに、正しくないもの・強くないものを内に持っているのは僕自身である。他人が、例えば、親父が、「おまえ、そんな生活を続けていて、どうする。それでは困るだろう」と言うのは、もっともな事だ。自分でも、どうにかしたいと思う。しかし、どうにかする力が自分には無いのだ。どうすれば良いのだ。僕をこんなふうに形作ったのは、神様、あなたでしょう。抜け出ることのできない穴に僕を落したのは、神よ、あなたではないか。どうしろと言うのだ。

しかし、繰り返しになるが、『神への告発』を読んで僕が学んだことは、それでは駄目だという事だ。

『神への告発』には、全体を通じて、絶望的な苦々しい感情が流れており、それは章が進むにつれて深まってゆく。読んでいて、冷たく暗い深みに降りて行くような、救いの無さを感じる。しかし、その救いの無さは、著者の境遇そのものの帰結であると言うよりも、その境遇について神を告発していることに原因があると感じられた。

重度の身体障害をもって生まれるということは、僕なんかの青臭い悩みに比べれば、明らかに、神に向かって文句を言うことが正当化される事態だろう。しかし、それでも、神に文句を言ってはいけないのだ。

2000年10月

最終更新日 : 2011-01-19