兵庫県加美町「女性の集い」

( 2001 ( 平成 13 ) 年 2 月 11 日 加美町住民センター )

天理よろづ相談所病院 前副院長 今中孝信

はじめに

皆さんこんにちは。ちょっと緊張しております。そのうち乗ってきますと所狭しと動き回りますが、よろしくお付き合いのほどお願いします。

私は加美町の出身でございまして、加美町の広報誌を毎月送っていただいております。私のように加美町から外へ出ているものにとりましては、故郷がどうなっているか知らせていただいたり、いろんなつながりを思い出させていただいて感謝しています。

実は、今年の1月号に私の写真が載っていてびっくりしました。「二十一世紀に残したいもの」という特集ですが、戦争中の昭和 17 年に共同託児所で写した写真です。私の家は加美町市原の天理教教会ですが、当時共同託児所となって近所の子どもさんを預かっていたのです。私の同級生とか懐かしい顔が写っていますが、一番かわいい子どもが私です(笑い)。年をとるとこれだけあつかましくなります。

今日、健康について申し上げたいことはいろいろありますが、「身体の健康」だけでなく、「心の健康」や「社会の健康」、さらに「魂の健康」などを含め、皆さんがお考えになっている健康よりも、大きくとらえてお話してみたいと思います。

第一章 21世紀の医療は病気中心から人間中心へ

専門診療と総合診療

先ほどご紹介いただきましたように、私は天理病院で 25 年間総合診療の運営に携わってきました。総合診療というのは皆さん聞き慣れないと思いますが、一言で言えば、患者さんを丸ごと診ることです。総合診療に対するものは専門診療です。

医学の進歩には目覚ましいものがあり、人間の遺伝子はすべて解明されようとしています。このように進歩した医学は専門診療の分野なのです。病気のことはずいぶん詳しくわかるようになり、治療法も新しく開発されました。病気をきっちり診断して治療することは大切ですが、診断がついても治療法のない病気がありますし、診断がつかなくても病人の苦しみをとる治療はできます。一番大事なのは病気で苦しんでいる病人の医学なのです。語弊を承知して言えば、専門診療は病人がどのように感じているかお構いなしに診療を進める性質をもっています。これでは「病人を診ないで病気を診る」ことになります。この反省から、最近は「病気を診ずして病人を診よ」と言われています。

病気には人格がありません。肝炎さんとか肺炎さんとか言いません。病気というのは十把一からげです。肝炎をわずらっているAさんBさんCさんというご本人は関係なく、肝炎をどう治療すればよいのか考えるのが専門診療です。

一方、総合診療は極端な言い方をすると、診断に拘らず、薬や注射を使わなくても、患者さんが元気になられたら良しとします。実際、患者さんの話をじっくり聞いてあげるだけで気持ちが楽になり元気になられるという例はいくらでもあります。診断がつかなければ治療ができないとして、検査を重視する専門診療と大きく異なる点です。総合診療は患者さんをそのまま診ようとします。

専門診療というのは細かく病気を診ていきます。例えば、「心臓の専門家」というのはまだ専門家ではありません。心臓の病気はたくさんありますから、狭心症・心筋梗塞の専門家とか、これを診断する専門家とかに分かれていきます。

狭心症や心筋梗塞をきちんと診断するのにカテーテル検査を行います。手や脚の動脈から細い管(カテーテル)を心臓まで入れ、造影剤を注入して心臓の筋肉を養っている血管(冠動脈)の写真を撮るのです。3本ある冠動脈のどこが何%閉塞しているか分かります。結果によって治療法も変わってきますから非常に大事な検査です。カテーテルを入れるのは高度の技術を必要としますので、まさに専門家といえます。半分冗談ですが、冠動脈に右と左がありますから、右へ入れるのが得意な専門医と左へ入れるのが得意な専門医がいるといわれるくらいです。要するに専門というのはどこまでも細分化するという例え話です。冠動脈を検査する超専門家にとっては患者さんがどんな人かは関係なく、血管のことしか頭にないと思います。

専門診療が細分化しますと患者さんの全体像が見えにくくなりますが、健康についても同じ事がいえるのです。いまや健康ブームで科学的な情報にあふれていますが、あまり細かい情報にとらわれますと、ほんとの健康を見失うおそれがあります。

第二章 「計算合って銭足らず」の各種健康法

みのもんたの「おもいっきりテレビ」

皆さんが一番ご覧になっているテレビの健康番組は「みのもんたのおもいっきりテレビ」ではないでしょうか(笑い)。みのもんたは医者の敵であると言う人があります(爆笑)。私はあの番組に恨みがあるわけではありませんが(笑い)、みのもんたの話をすると皆さん目を輝かせて聴いていただけますので取り上げさせてもらいます。医者も出ていて科学的な解説もありますから、確かに嘘は言っていないかもしれません。しかし、あまりにも細かいことに拘(こだわ)りすぎて、日常の生活とかけ離れています。健康番組というより、健康を扱ったクイズ番組というほうが当たっていると私は思います。

番組を見ないで批判するのはフェアではありませんし、講演でいいかげんな話をしますと後から文句が出るかもしれません。そのため昨年11月の終わりでしたが、私は我慢して2回メモを取りながら見ました。これから寒い日を迎えるので風邪を引かないようにしましょう。血圧の高い人は血圧が上がらないようにしましょう、というような内容でした。

風邪の対策として、うがいをしましょう、手を洗いましょう。これは一般的に言われていることです。ところがビックリしましたのは、手洗いについての注意です。例によって、○、△、×というのが出てまいりまして、手を洗ったら、滴(しずく)が下がらないように手を上げましょう。タオルは上に吊(つる)しましょう。なぜかというと下にタオルがあったら、せっかく洗った手が汚れてしまうというのです。どういうことかと思ったら、病院の手術場をイメージした話なのです(笑い)。手術をする外科医がグリーンの手術着と手袋をつけて腕を胸の前で組んでいる姿をご覧になったことはありませんか。

病院で医者が手術室へ入る前にどれだけ手を洗っているかご存じでしょうか。手だけではなく、肘まで石鹸でごしごしと洗います。私が研修医のころは、ヨードチンキを手に塗って、それが落ちるまで洗うことを教育のためにやらせていました。どこかきちんと洗ってない箇所があったら色が残っていて分かる仕掛けです。そのくらい徹底して洗った後、次は消毒液で洗います。その後、完全に消毒してある手術着と手袋をつけるのです。不潔なものにちょっとでも触れたらやり直しです。このように二重三重にガードして手術している部分にバイ菌がつかないようにしているのです。

ばい菌を絶対に持ち込んではいけない手術場の手洗いと、風邪対策のための手洗いと比較できますか?普段の生活でこんな手洗いはできませんし、無意味です。一部分をだけを取り上げ、いかにも科学的な知識として紹介しているのです。

風邪を引かないために午前中におしゃべりしましょうというのがありました。これには説明が必要です。私たちの気管には繊毛(せんもう)といって細かい毛が生えていまして、気管に入ってきたバイキンを痰と一緒に纎毛が外へ出す働きをしているのです。ですから繊毛の働きを良くするために、午前中におしゃべりした方がいいという話なのです。朝の忙しいときに「さあ、いらっしゃい。風邪を引かないためにおしゃべりしましょう」と奥さん方は集まってくるのでしょうか。こんな他愛もないことを、いかにも科学的なことのように大真面目(まじめ)でやっているのです。

それから、血圧対策として次のようなこともありました。外出から帰ってきたときには 30 分は休みましょう。それには座り方が問題で、1) 椅子に座る、2) 正座する、3) 足を投げ出して座る、この3つの内どれがいいでしょうというわけです。実際に血圧がこの3つの方法で違うことを数値で示していますから、まったくいい加減ではありません。しかし、血圧はちょっとしたことで上がったり下がったり変動しますし、血圧が上がるのは悪いという前提で考えているのがむしろ問題です。急に立ち上がったときなど、血圧が上がるべきときに上がらなかったら大変です。脳に行く血流が減りいわゆる脳貧血を起こします。

階段を上るのに血圧が上がるから、階段の手すりを持ちなさい。風呂に入るときは下着はパンツから脱ぎなさい。そのほうが血圧が上がらない(笑い)。とにかく、よくこれだけ細かいことを調べたものだと感心します。みのもんたのフアンの方がいらっしゃたらお許しください(笑い)。

テレビに映ったみのもんたが、「この番組はお医者さん2人に1人が見ている」と言うのです。私もそのとき見ていたのです(爆笑)。昼の日中の忙しい時間帯に、1時間もテレビを見ている医者が何人いるのか?「馬鹿なこと言うな」と一瞬思ったのです。ところが、少し冷静になって考えてみますと、この番組は患者さんもたくさん見ておられる。みのもんたのことを知らないと、患者さんとのコミュニケーションがうまく取れないのではないか。「みのもんたはこういっていたけど、実はこうですよ」と言うと納得していただきやすい。 だから、毎日ではないにしても医者は見ているのではないか。そう解釈すればなるほどといえます。ことほど左様にこの番組は人気があります。

有名なのは赤ワインです。フランス人は肉をいっぱい食べるのに動脈硬化が少ないのは赤ワインを飲んでいるからだ。このことをフレンチパラドックス(逆説)といいますが、このことをテレビで紹介してからものすごく売れ行きが上がりました。ごく最近も、ココアが店先からなくなってしまったと聞きました。それくらい影響力が大きいのです。お楽しみ番組としてみておられるのだったら、私はそれに対して文句をつける筋合いはありません。しかし、店頭から物が消えてしまうのはどうでしょうか。同じものを食べさせられる家族はいい迷惑です(笑い)。

バイ菌と健康

ところで、風邪を引いているのかいないか分からず、 医者に決めてもらうようではいけません(笑い)。皆さんは今、笑われましたが、小さい子どもさんがくしゃみをしたり鼻水を出すと心配になり、風邪だと決めてもらうために子どもを連れて夜中に病院に行く若いお母さん方が少なくないのです。これは作り話ではなくて実際にある話です。病院の救急外来が 24 時間オープンで手軽に診てくれるコンビニ病院のようになっているのです。どこの病院の救急外来もいまやパンク寸前です。患者さんで溢(あふ)れていて、ほんとに急を要する患者さんの診察ができないのです。

皆さんは病院へ行けば安心だと思っていらっしゃいますが、病院は安心ではありません。種明かしをしますと、夜中に診察している医者は当番制でやっているのです。当直の医者はどんな患者さんでも診られるわけではありません。ざっくばらんにいえば、いやいやながら診ているのです。子どもの場合、小児科の先生にあたる確率は高くありません。専門外のことが多いのです。

風邪なら、薬を飲んでも飲まなくてもいずれ治るのです。インフルエンザでもふだん元気な人であれば5日から1週間でよくなります。こうして自然に治すと免疫力ができ、しかも免疫が長続きします。一番典型的なのは麻疹(はしか)ですが、一度かかれば二度とかかりません。インフルエンザにしても高熱や節々の痛みで苦しんだ分だけ抵抗力ができているのです。ですから感染症にかかるのも、あながち悪いことばかりではないのです。

感染とアトピー

多くの人はばい菌に対して恐怖心を持っています。ばい菌は悪だと思っていますから、抗菌グッズが売れに売れているのだと思います。ところが、健康に生きるためにはばい菌と仲良くしなければいけないのです。ばい菌と共存することによって体は強くなり、重い病気にならなくてすむのです。

例えば、急性肝炎というウイルスが原因の感染症があります。黄疸(おうだん)が出ますが、通常は1、2か月で自然に治ります。ウイルスは患者さんの糞便(ふんべん)から排泄(はいせつ)され口からうつりますので、清潔な環境では感染しません。昔は誰でも知らない間にうつっていたのですが、最近はうつらなくなっています。ところが歳をとってからかかると重症になるのです。若いうちであれば知らない間に免疫になっていることもありますから、できればかかっておくほうがいいのです。

風邪についても、子どものときにかかっておいたほうがいいことが分かってきました。感染の多い子どもにはアトピーが少ないのです。アトピーは喘息、湿疹、花粉症などのアレルギーによる病気です。回虫博士として有名な藤田紘一郎先生が『清潔はビョーキだ』という本に書かれていますが、ほとんどの子どもが回虫をわかしていた時代にはアトピーは少なかったのです。免疫学の権威で、『免疫の意味論』を出されている多田富雄先生も、アトピーが増えたのは、青洟(あおばな)をたらす子がいなくなったことと関係があると言われています。

私たちが子どもの頃は、みんな洟(はな)を出していました。当時はティッシュなんてありませんし、あるとすれば新聞紙ですが、これは何にでも使える大事な資源で手軽には使えません。どうしたと思いますか。みんなこうやって上着の袖(そで)で拭(ふ)いたんです(笑い)。袖(そで)口は洟でテカテカです(笑い)。青洟というのは副鼻腔炎、俗にいう蓄膿(ちくのう)です。副鼻腔は鼻の奥に空気の入っている洞穴みたいなものです。そこにばい菌がついてウミが溜(た)まっているのが青洟です。私が生まれ育ったのは杉原谷村で杉花粉が多いと思いますが、花粉症を見かけた記憶がありません。

最近こうした感染とアトピーの関係を指摘する研究が他にも報告されています。例えば、家族の多い家庭に育った子どものほうがアトピーが少ない。家族が少ない場合は、早くから保育所に通った子どもにアトピーが少ない。おそらく保育所でばい菌をいっぱい舐(な)めたり吸ったりしたためと思われます。結核に感染しますとツベルクリン反応が陽性になりますが、ツベルクリン反応の陰性の子どもにアトピーが多いのです。

こういうデータが揃ってきて、「清潔仮説」が発表されています。この論文を載せた医学雑誌がランセット Lancet という世界的に信頼の高い雑誌です。こうなると、風邪を引くことがよくないとか、ばい菌が悪いとかいえなくなります。常に清潔であることは子どもにとって仇(あだ)になります。ばい菌がいるから病気になるという短絡した考えをしないで長い目でみる。物事をもっと大きく捉(とら)え、ばい菌とも共存していかなければならないのです。

文化生活と健康

子どもにとって環境を整えすぎることが必ずしも良くない例は他にもあります。子どもが転びやすい、山にも登れないと聞いたことがあります。平坦なところだけで育てると、少しの凹凸もバランスがとれず躓(つまず)きやすいのです。部屋の温度にしても、自宅でも保育所でも細かくコントロールされていると、自分で体温を調節できなくなるのです。寒かったら鳥肌がたちますが、あれは体温が逃げないようにするとともに、体内から熱を起こしているのです。暑かったら毛穴が開いて汗を出し、汗が蒸発するときに熱を奪って体温を下げます。このように暑さ寒さに対して本来は自動的に身体が反応しているのですが、それができない。良かれと思ってやっいることがマイナスになっている例には事欠きません。

皮膚にはばい菌がいっぱいついています。いくら洗ってもなくなりません。そのばい菌が悪いばい菌から私たちを守ってくれています。風呂へ入らないと体が脂ぎってきますが、この皮脂も皮膚を保護しています。石鹸で体をごしごし洗いすぎるとこの皮脂を洗い流すことになります。高齢になりますと脂がなくなって皮膚がかさかさしてきます。そのなけなしの脂を石鹸で洗い流してしまいますと老人性皮膚掻痒症に悩まされることになります。かゆいのです。お湯だけで結構汚れは落ちます。以前は食器を洗うときに洗剤などありませんでした。お湯と灰で洗っていたのですから。

私は退職後やりたいことがいっぱいあるのですが、その中の一つが家庭料理を覚えることです。これはだれのためでもありません、自分自身のためです。家内がもし入院したり、先立つようなことがあれば一番困るのは毎日の食事です。しかし、目下は忙しくて洗い物をすることくらいに留まっています。ほとんどお湯だけでしていますが、それでも結構汚れが落ちます。要するに、石鹸や洗剤の使いすぎになっていないかということです。

フィンランド症候群

お手元のレジュメ「フィンランド症候群」というのがあります。健康に細かく気をつけていても、必ずしも病気の予防にならないという話です。フィンランドの保健局、日本でいえば厚生労働省が成人病の予防について行った大がかりな実験です。その結果、思いもよらない結果が出たのです。この実験は非常に有名になり「フィンランド症候群」と呼ばれています。

実験は、心筋梗塞とか脳出血などの生活習慣病を予防するために医学的に良いとされてることをキッチリと守るグループ 600 人と、そういう規制をしないグループ 600 人に分けて比較したのです。40 才から 45 才の働き盛り、しかもストレスのかかる管理職の方たちが対象です。

片一方のグループの人には、栄養学的なチェックをする。塩分を控えましょう。甘い物を食べ過ぎないようにしましょう。できるだけ歩くようにして運動してください。それから、煙草と酒をできるだけ控えてくださいと指導します。もう一つのグループには何も指導せず、放任です。フォローした期間は1年や2年でなしに、15 年間も追っかけたのです。

結果やいかにと蓋(ふた)をあけて見ますと、まったく予想と反対の結果が出ました。これこそ「計算あって銭足らず」。一生懸命健康のために、あれやこれやと指導を受けた人の方が心筋梗塞とか中風などの血管の病気になりやすかったし、癌も多かった。いろいろな病気で亡くなられる人や自殺も多いということが分かったのです。

これは何を意味するのでしょうか。高血圧が血管の病気に対してよくないとか、塩分の取りすぎは癌になりやすいとか、このこと自体は間違ってません。医学的に正しいのです。しかし、一人一人の人間についていえば、同じではありません。例えば、煙草が身体に悪いというのはほぼ 100% 証明されています。しかし煙草の吸い方が人によって違います。私に言わせれば、毎日喜んで暮らしているか、世のため人のためになることをしているかどうかが問題です。医者がやめろというがやめられない。常に身体にわるいと思いながら吸っている。これでは煙草に申し訳ない。煙草を作っている人に申し訳ない。ああおいしい。人がなんと言おうと自分は煙草止められない。その代わり、「心の健康」や「社会の健康」には気をつかっている。これもいいでのではないでしょうか。ですから煙草だけ比べたら悪いのですが、煙草の吸い方、心の持ち方によって、結果が違ってくる。一つひとつは理屈に合っていてももっとトータルで考えないとだめなのではないかと私は考えています。

健康診断の問題点

最近は健康診断を受けられる方が多くなり、皆さんの関心も高いのではないかと思います。健康診断は簡単に受けることができ、検査結果がコンピュータで処理されて印刷されますので、いかにも科学的に見えますがそのまま信用するのは問題です。結果をどう解釈し、どのように生かしていくかが大事です。

健康診断が意味のないものだというのではないのです。健康診断は上手に利用しないと、健康な人を病気にしてしまう「病気製造機」になる怖(おそ)れがあるのです。検査項目が多いと充実した健康診断だと思われたことがないでしょうか。ところが検査項目が増えれば増えるほど、健康であっても異常と判定される項目が増えるのです。そういう絡繰(からく)りが検査自体にあるのです。例えば15項目の検査を受けられたら健康であっても半分の人が異常があるといわれることになります。

何をもって正常とするのか、判定の基準が問題なのです。病気とは違いますが、加美町住民の身長の平均値を出す場合を例にして考えてみます。縦軸を身長、横軸を人数とし、実際に測定した値を入れていきますとグラフができます。160cm の人が何人、150cm の人が何人……。人数が少ないとグラフはでこぼこしますが、人数を増やしていくと釣り鐘状になります。これを正規分布といいます。両端は平均よりもかなり背の低い人と高い人が少数ですが分布します。この両端の部分 2.5%、100 人に対して 2.5 人、あわせて 5 人を異常と決めます。これは約束事ですから、100 人調べたら 95 人は正常範囲、5 人は異常値と自動的に判定されるのです。

これを健康診断の検査結果にあてはめますと、健康であっても 95% は正常ですが 5% は異常と判定されます。1つだけの検査なら 95 パーセントが正常ですが、2つになると 95% × 95% = 90% に下がります。30 項目も受けたら検査項目全部が正常の人は 20% しかいません。ですから検査結果が少し異常と判定されても慌てないことです。コレステロールが 230 とか 240 で少し高いといわれても一喜一憂することはおやめになったほうがよろしい。

日本人はご馳走を食べすぎてコレステロールがどんどん上がっています。加えて、ついこの間まで正常値は 250 だったのです。それでは高すぎるというので 220 にしたのです。そうすると高脂血症という診断はぐーんと増えます。だれが喜ぶと思いますか。コレステロールを下げる薬を販売しているメーカーです。

検査結果が異常であればすぐに病気ということにならないし、逆に正常であれば健康であるということも言い切れません。健康診断の結果は一つの判断資料と考えてください。

健康診断の活用方法

健康診断は「集団の正常値」によって判定しています。ですからどういう集団の正常値を持ってくるかによって変わってきます。それより大事なのは「個人の正常値」、自分自身の正常値です。どうすればわかるかといいますと、健康診断を毎年同じ時期に同じ施設で定期的に受けるのです。そうしますと、同じ検査の値はびっくりするくらい似ていることが分かります。例えば、白血球の数が集団の正常値と比べると少し多いけれでも、個人の正常値としては変化がない。こういうことは愛煙家によくみられます。しかし、検査センターは白血球が多いので精密検査を受けるように毎年指示してきます。このように自分自身で検査結果を例年の値と比較することが大切です。

本来、検査というのは診察の一部分なのですが、健康診断では検査だけが独立しています。ちなみに、病院も検査中心になってきています。患者さんも「検査をしてください」という人が少なくありません。医者を信用せず、科学に裏付けられた検査しか当てにしていないともいえます。検査はいいことばかりではなく、検査によっては危険を伴います。特にお腹の内視鏡がそうです。腸に穴を開けてしまうことだってあるのです。くわしく説明を受け、納得されてならやむを得ないのですが、がん検診で便の検査を受けたら血液の反応が陽性に出た。がんだったらいけないからと半ば強制的に検査を受けた結果の事故だったらどうしますか。

私たち医師が患者さんを診るとき、問診といって話を聞くことから始まります。次は胸とかお腹など身体の診察です。その次にどんな検査をするか医師は考えるのです。診断は問診、診察、検査結果をあわせて行います。医師は患者さんに診察の結果を説明し、さらに検査が必要である場合は同意を得て実施します。こんな風に診療は進んでいきます。ところが健康診断では肝腎の医者の診察や説明が抜けています。報告書をぽんと渡して、大きな病院に行って精密検査をうけてくださいというのがほとんどだと思います。ドックは近代的な検査機器を使いいかにも科学的に見えますが、こうした問題点があることを知って利用されたらいいと思います。

それならばドックをすっかりやめてしまうというのも賢明ではありません。ドックの目的は、症状が出ないうちに早く病気を見つけて手当をしたいということです。高血圧とか糖尿病ではこれに相当しますが、どんな病気でも可能ではありません。皆さんの心配されているがんについても、検診の意義が見直されようとしています。一部のがんを除いてその効果が疑問視されています。

ドックを受けられたときは、検査結果だけで判断するのはよくありません。検査が病気作りになってしまいますから、今言ったことを参考にされて経過の中でみていくのがいいのです。できたらかかりつけのお医者さんをお持ちになるのがベターです。ホームドクターがあるとドックの結果についても相談にのってもらえます。

老人と健康

私はもうすぐ 65 歳ですが、65 歳になると国が認めている老人です。しかし 65 歳では若すぎるので、75 歳まではヤングオールド young old、75 歳からオールドオールド old old(笑い)、85 歳からオールデストオールド oldest oldにしようという考えがあります。事実上、介護が必要になるのは 85 歳からです。もちろん 60 代、70 代で元気のない人もいますが、大多数は元気です。

私の外来には 70 代、80 代の患者さんがいらっしゃいます。このなかに、細かいことをいつも気にしておられる方があります。「コレステロールはいくらですか」。いくらでもいいではないですか(笑い)。そんなに気にされるなら検査をやめときましょうということになります。

後でお話しますが、検査の結果はどうあれ、自分のやりたいことができたら健康なのです。特に高齢の方はそうです。やりたいことがなくなったら生きている甲斐がありません。やりたいことをやるためには体力と気力、経済的な余裕、さらに家族の理解と支えが必要です。

お父さんやお母さんが 70 を越えてコーヒーを飲む異性の友達ができたとしたら、「いい歳をして恥ずかしい」などと言って止めないでください。恋人ができれば元気になるのです。結果的には寝たきりにならないで介護する必要がなくなれば、家族にとっても悪いことではありません。結婚されると財産相続のことが気になるというのなら、別にきちんと話し合っておけばいいことです。

要するに、やりたいこと、わくわくすることがあるかどうか、それができる体であるかどうかで健康を考えるのです。血圧がちょっと高いといって、すぐに医者に行き薬をもらうのはやめたほうがよろしい。実は、65 歳を越した元気なお年よりの正常値というものはないのです。老人健診で血圧が高いとか、コレステロールや尿酸の値がどうだとか言っていますが、これは 20 歳から 60 歳までの人の正常値なのです。それをお年寄りに当てはめてるのは問題があります。

お年よりの方はいろんな薬をもらわれていることが少なくありません。老人性痴呆(ちほう)の患者さんばかりを収容している施設がありますが、そこの院長さんが書いていらっしゃるのです。施設に連れてこられたとき、今まで飲んでいた薬を全て止めると、それだけで4割の人が元気になると言うのです。例えば、血糖が少し高いからといって、お年寄りに若い人と同じように血糖降下剤を使うとボケてくることがあるのです。

お年寄りにはお年寄りの健康法とか医療があるはずなのですが、いまはないといってもいい状態です。できるまで待っておれないでしょう。じゃあどうするか。自分で自分を守るのです。自分のことは自分が一番よく知っているのですから。

タダほど高いものはない

現在のようにドックが検査中心に行われ、結果が自動的に出てくるのは経費のこともあるのです。無料に近い形で会社や市町村がやってくれる。老人医療で国がやってくれるということが多いと思いますが、タダほど高いものはありません。やはりお金を出さないと納得できるドックは受けられません。老人は医療費を完全に無料にした時期がありましたが、これも問題でした。ご苦労頂いたお年寄りの方に医療費をタダにすることによって報いましょうというのが表向きの理由でしたが、結果的に老人を食い物にしたともいえます。

お年寄りは検査すればいくらでも病気が出てきます。タダだからといってどんどん薬を出す。お年寄りは肝臓も腎臓も弱ってきているのです。若い人と同じように薬を出せば副作用が出やすいのです。実際、ボケてきたといってご家族の方が諦(あきら)めていたが、薬を一切止めると元に戻ったというのは珍しい話ではありません。先ほどの正常値を決めるときに、本来は 70 歳以上の人の正常値を 20 歳代の元気な若者の正常値とは別に決めなくてはいけないのです。ところが現在は 60 歳までの元気な方の正常値をお年寄りに当てはめているのです。そのために病気つくりになっている面があり、タダだからといって薬を貰うのは考え物です。

医者の手の内をよく知っている患者さんが「先生も商売だし、薬を貰ってあげないと困るでしょ」などと言って薬は持って帰るが飲まないで捨てる。医者はこれまで診察よりも薬で金儲けをしてきましたから、こんなことがまことしやかに言われています。冗談ではなしにこんなことがありうるわけです。

ドックを受けられる人は、3つのタイプに分けることができます。一つ目のタイプはドックの利点と問題点を知って受け、その結果を活かす人です。二つ目は、人間ドックを船のドックと勘違いしている人です。船のドックは悪いところを直して遠洋航海に出て行きますが、人間ドックは修繕してくれません。ドックを受けて安心するのは見当違いです。三つ目のタイプは、病気でもないのにいろいろ病名をつけられてノイローゼのようになる人です。是非、一つ目のタイプになって賢いドックの活用をしていただきたいと思います。

第三章 健康は全人的にとらえる

健康を大きくとらえる

健康について、皆さんの一番の関心事はやはり「体の健康」ではないかと思います。しかし、体のために健康食品とか保健薬などにいろいろ気をつかっておられても、それだけでは本当の健康にはなれません。自分を取り巻く社会との関係が良好であるかどうか。いわば「社会の健康」が非常に大切です。社会そのものの安全性や豊かさということもありますが、身近な夫婦や親子の人間関係や隣近所との付き合いがうまくいっているかどうかも大事です。出会っても挨拶もしないということであれば、社会的に健康であるとはいえません。

最近ではご婦人も仕事をなさっている方が多いのですが、職場で同僚とか上司と気持ちよく仕事ができているかどうか。子どもさんであれば学校が楽しいかどうか。これらはみんな社会の健康です。この故郷加美町も私にとって社会です。何でも話せる友達がいるということは財産ですし、健康にとって大切なことです。

実はこの会場に、西脇高校の同級生3人が私の話を聴きに来てくれています。私にとっては応援団みたいなものです。男性ですので「女性の集い」ということで小さくなっているかもしれませんが、拍手が少なかったら拍手をして盛り上げてくれるだろうと期待をしています(笑い)。私は講演をしますとテープにとっておいて後日それを起こし、小冊子にして皆さんにお配りしています。もちろん商売ではなく趣味ですが、この中の二人が骨身惜しまず協力してくれているからできたことです。もう随分たくさんできて 20 冊を超えています。

私にとりまして、こうした故郷があり、親友を持っていることは、今日申し上げる「社会の健康」に関係することです。

人間の6つの特性

健康というと、一般に「身体の健康」を意味しますが、そもそも人間は身体だけでできているわけではありません。人間はそんなに単純なものではありません。

人間は6つの特性を持っています。犬や猫でも持っているような動物共通の部分3つと、人間を人間らしくしている部分3つからできています。動物と共通の部分としては、1) 原子とか分子とかが集まった物質からできていること、2) 生物であること、3) 意識があることです。意識がなくなったら、植物人間になったり、脳死状態になったりして大変です。人間らしい部分としては、4) 人間社会の中で育てられてはじめて人間になれるという社会的存在であること、5) 一人ひとり違う人格を持っている人格的存在であること、6) いつかは死ぬことを自覚していることです。

人格的存在について申しますと、親子であっても人格は違います。兄弟ならなおさらです。人間の遺伝子が今だんだん解読され、分かるようになってきています。遺伝子という設計図をコピーするとまったく同じ人間を作ることさえ可能になってきています。その意味では一卵性双生児はコピー人間といってもいいのです。

ところが一卵性双生児であっても、どういう育て方をされたかによって違ってきます。遺伝子としては同じものを持っていても、遺伝子の中で表(おもて)に現れてくるのは一部分なのです。遺伝子は設計図ですから、実際に設計図に基づいて作成されなければ、遺伝子がないのと同じです。いろいろな能力を与えられていても、磨いたり勉強したりしなかったら能力は眠ったままです。一卵性双生児で同じ素質を持っていても、育て方、勉強の仕方によって瓜(うり)二つではありません。つまり、人格的存在としての特性は違ってくるのです。

人間の特性の6つ目は、死ぬことを自覚していることです。中には、いつまでも生きられるものと死を自覚していない人もあります。そんな不吉な話は大嫌いと死には顔を背けて生きる。いつまでもハッピーハッピーで生きられると無理にでも考えようとしている人もありますけれども、心の底ではやはり死ぬのが怖いのです。

人間は一人ひとり違う

ここまでお話しますとお分かりになると思いますけれども、人間というのは、一人ひとり全部違うのです。医学の進歩が目覚ましいと言われますが、人間の特性のうち、生物としての人間に対する医学がどんどん進歩してきているのです。

例えば、新しい薬が出たときに、その薬が効くか効かないか最初に試すのは動物なのです。動物で人間とよく似た病気を作って、成分は全く同じものを体重あたりいくらと計算して投与します。次に実際に人間に試し、効果や副作用を確かめてから製品として世に出します。いかにも科学的にみえますが、新しい薬が効くか効かないかということになってくると、そう簡単ではありません。

その理由は、人間には人格がある、ものの考え方が一人ひとり違うからです。同じ薬であっても、天理病院「憩の家」の先生にもらった薬は効くけれでも、同じ薬を近くの院外薬局で調剤してもらったら効かないということが起こってきます。そんな遠い所から天理まで薬を貰いに来なくても、近くの薬局でもらいなさい。処方箋を書いてあげましょうと受け持ちの先生が言われることがあります。ところが薬がいつものように効かない。これはありうることなのです。どうしてでしょうか。薬は成分だけで効いているのではない。「憩の家」に対する信頼、主治医の先生に対する信頼があるから効く面があるのです。

このように、科学としての医学で全てのことが分かる、問題解決できるというのは錯覚です。ですから皆さんが医学に対して絶対的な信頼を抱いておられたら修正してください。動物実験に基づいて言えることは間違っていません。しかし一人ひとりの患者さんにそのまま通用するとは限りません。この薬が効くのか効かないのかと言えば、その人に試してみなければ分からない。これが正しい見方なのです。

プラシーボ(偽薬)の話

今、私が申し上げていることは眉唾(まゆつば)ではないか、本当かなと疑っておられる方のために、プラシーボ(偽薬)の話をしましょう。これは先ほど申し上げました新しい薬を公式に認めるかどうかというときに、片方は本当の薬、片方は偽薬で比較試験というのをするのです。見た目には同じ色、同じ大きさ、口に入れた時も同じ味付けにします。人間は一人ひとり違うのですけれど、少なくとも病名は同じ人を 100 人、200 人と集めてきて、片方のグループは新薬、片方のグループは偽薬で比較します。この時、患者さんは勿論ご存じない。医者も知らない。担当の医者が、これが偽薬、これは本当の薬ということを知っていたら、医者の心が患者に伝わるから駄目なのです。「あなたにあげている薬は嘘の薬です。ご免なさい」と感じていたら患者さんに影響するのです。ですから、この比較試験をする時は、薬を処方する医者も、調剤する薬剤師もどちらがどうか知りません。

この番号の薬は本物これは偽物と分かるのは、試験をコントロールしている別の機関のみです。試験の結果はこの機関で開けてみるのです。例えば、痛み止めの薬であれば何人の方が痛みが取れたか比較します。

このようにして調べたらどういう結果がでると思います?一般的に認められているのは、30%、100 人のうち 30 人に偽薬が効くんです。「そんな馬鹿な」と思われるでしょう。身近なことで言えば、なかなか手に入りにくい薬を誰かにもらったとか、物凄(すご)く高い薬を自分のために買ってきてもらって飲むのと、「これ何の薬?どうしても飲まなきゃいけないの?」と言って飲むのと、効き方が全然違ってくるということです。

お薬のことで申し上げていますけど、医学ですべて分かっているわけではありません。医学で解決できることは一部分なのです。ところが今「健康でありたいという病」に罹(かか)っている人は科学を信仰されているともいえます。科学というのは、客観性や再現性が重要です。誰がやっても同じ結果が出る。同じ薬でもAという医者が出せば効くけど、Bという医者が出したら効かないというのでは、これは科学ではありません。科学は、一人ひとり違う人間であることを無視しているのです。モルモットと同じように人間を見ようとしているのです。「健康でありたい病」の人は、科学的なことならば無批判に信じ、「私もやってみよう」と飛びつくのです。

第四章 自分のしたいことが出来たら健康

寿命も一人ひとり違う

人間は一人ひとり違いますが、寿命も一人ひとり違います。ちょっと考えたら分かりますが、長生きの家系があります。強い心臓とか肺をご先祖様からもらっているということもありますが、もっと大事なことは「生き方」も受け継いでいることだと私は思うのです。非常に質素な生き方をしている。周りと協調して仲良く生きている。そういう生き方が長生きの元になっているのではないか。食べ物の好みも関係あるでしょうが、それは一部分だと思うのです。健康になりたい、長生きしたいと個人的に努力することは間違いではありませんが、いくら努力してもその人の寿命というものがある思うのです。

全ての生物には寿命があります。当然、人間にも寿命あります。ところが人間だけは寿命に関係なく幾らでも生きられると考える方がおかしいとは思いませんか?生まれ育った所によっても違います。日本に生れたかアフリカで生れたか、戦争している国に生れたら戦死する若者が増えます。

日本は現在、横を向けば糖尿病ですけれども終戦直後は見かけませんでした。お肉なんて食べられませんから痛風など探したってありませんでした。太っている人はいませんでした。戦中戦後を描く映画を見ていて、いつもおかしいと思うのは、軍服着ている人がはちきれそうに太っていることです。あの姿を見ると映画が作り物だということが分かってしまい白けてしまいます。当時、国民はみんな痩(や)せていて服がダブダブでした。ズボンのバンドをしっかり締めなかったらずり落ちてしまい、腰骨のところでやっと止まる状態でした。

寿命は一人ひとり違いますが、どんな時代に生れたか、どの国に生れたかによっても寿命は違ってくるといえます。暖衣飽食の我が国では、こんなことすら分からなくなってきているのではないでしょうか。

お相撲さんと健康

私は大相撲が大好きです。若花田、貴花田が出てきてだんだん強くなって横綱になっていく。あれは成長物語として興味があるだけでなく、あの頃は相撲が躍動していました。一瞬の勝負にワクワクする。皆さんの中にも大相撲ファンの方が沢山いらっしゃると思いますが、お相撲さんはどうして強くなるのでしょうか?実は、生活習慣病の予防とまるで反対のことをしているのです。相撲は太らないと勝てないのです。舞の海みたいに小兵でも結構太ってます。お相撲さんというのは体重がないと力が出ません。ボクシングのように持久力を要求されるスポーツは痩せていてもかまいません。力士のようにバーンとぶつかって勝負する瞬発力は、力だけではなく太っていないとダメなのです。そのために食べるのです。

最近 NHK テレビに寺尾が出演していました。寺尾はお相撲さんの中ではスマートな方ですが、彼も太るためにお腹(なか)が一杯になってから、その二倍食べるのだと言っていました。ちょっとものを言おうとするとウェーと出そうになる。仰向(あおむ)けに寝たら苦しいから頭を起こす。強くなるためにそこまで食べて太るのだそうです。その結果、お相撲さんは生活習慣病が非常に多いのです。糖尿病、高血圧、通風などいくらでもあります。そうすると寿命は普通の人と比べて短くなります。歴代の横綱 30 人の平均寿命は 54 歳です。現在日本人の男性の平均寿命は 77 歳ですから、これより 23 年も短いのです。これをどのように受け取られるでしょうか。そんな生き方やめなさい。日本から大相撲という不健康なスポーツをなくしましょうと言う人があるでしょうか。言ってみれば、これに似たことがいかにも正義の味方のように日本では言われていると思うのです。

大切なのは何歳まで生きたかより、この世に生を受けてから亡くなるまでいかに生きたか、その内容が問題ではないでしょうか。例えば、自分の家系としては 40 か 50 で亡くなっていたのが、自分は 60 まで生かしてもらった。これは素晴らしいことです。その方の努力もあるでしょうし、周りの支えもあったことでしょう。

最近、ホームから落ちた人を助けに降りて自分も亡くなられたという痛ましいニュースがありました。この人の生き方をどう受け止めていいのか。恐らく、考えて行動されたのではなく衝動的だったと思います。私たちの胸にグサッと突き刺さる話です。一人ひとり人生は違っていて、命の長さは長かったり短かったりします。“たましい”の大きさは大きかったり小さかったりする。けれどもそれぞれに一生懸命生き、みんなから「いい人だった」と言われる。これが素晴らしいのではないでしょうか?

ところが現在の日本では、とにかく病気にならないこと、長生きすることが生きる目的になってしまった。自分が存在するのはご先祖さんのお蔭、社会のお蔭だと感じない。自分が幸せになるためには何でもしてやろう。他人はどうでもいい。言ってみればそういう生き方が目立ちます。これはまさに「健康になりたいという病気」ではないでしょうか。

健康は生きる目的にならない

このように考えてきますと、万人に通用する完璧(かんぺき)な健康などは存在しないのです。もちろん、糖尿病を放っておいたらいろいろな病気が出てきて長生きできない。これは誰にも共通です。そういう共通する部分と一人ひとり違う比べようのないものがあるのです。自分にとっての健康とは何か?あなたにとっての健康とは何か?二人に共通する部分と違う部分があるはずなのです。そういう考え方を失っていないでしょうか?

人がなんと言おうと、私はタバコを吸わないと仕事ができない。感動を呼ぶ小説を書いて多くの人に読んでもらいたい。これは司馬遼太郎さんの話です。司馬さんはぷかぷかタバコを吸うチェーンスモーカーでした。まだタバコに火が付いているのに次のタバコに火をつけます。すごい愛煙家だったわけですが、司馬さんが亡くなられても、その作品は皆さんに愛読され影響をあたえ続けています。言ってみれば司馬さんの身体は滅びたけれど魂は生き続けています。これは司馬さんのような特別な人でなくても、その魂の大きい小さいはあっても変わりません。亡くなってからどれだけ思い出してもらえるか。残された人たちにどれだけ影響を与えているかで、その存在がわかると思うのです。

芸術家と呼ばれている方にも同じことがいえます。作曲家のベートーベンとか画家の横山大観などは健康的な生活をしていたわけではありません。それでいて素晴らしい後世に残る作品を残しています。それは極端な例ではないかと言われるかもしれませんが、一般人にとっても自分にとってほんとにしたいことは何なのかということを中心に据えて生きることが大切です。これを完成するにはどうしても何年間かかる。今死んだら完成しないという場合、身体や病気を無視して仕事に打ち込むと、結果的に予想外に長生きすることもあります。生き甲斐療法として積極的に難病の治療に活用している医師もあるくらいです。つまり、健康な身体があってはじめて仕事ができるとはかぎらない。ひたすら健康のために生きるというのはおかしい。健康が生きる目的にはならないと私は思います。

タバコが好きなら吸ったらいいのです。同じ吸うなら美味しそうに吸ってください。「今日はこれで何本目だ。医者から止められいるのだけれど」と言って、ちょこっと吸ってもみ消す。これではタバコがかわいそうです。タバコを作っている人にも悪いのではありませんか。同じ吸うなら、感謝して美味しく吸う。その代わりタバコを吸いながら人の悪口を言っているのではなく、人のためになることをする。それが私の言う“毒消し”です。タバコを吸っている人はボケが少ないということが一部で言われているようですが、身体の面からいえばタバコが悪いということは恐らく将来もひっくり返らないでしょう。

自分の価値観をしっかりもっていれば、タバコにしたって、お酒にしたって、これ以上は控えようという線が決まってくると思うのです。例えば、お酒を朝から飲んでも仕事がどんどんできる人はいいでしょう。一般論から言いますと、朝からお酒を飲みますと体はいうことをききません。頭がはたらかない、体が動かない。朝から飲んでいいのは旅行に行った時ぐらいのものです。

自分にとって一番大事なことは何かということを自覚していますと、本を読まなくとも、テレビを見なくとも健康について自分はこうするとかしないとか判断できます。中心になるものがないからどうしてよいか分からず、いろいろな情報に振り回されてしまうのです。

自分のしたいことが出来たら健康

自分のことは自分が一番よく知っているはずです。医者ではありません。自分にとっていちばん大事なものは何か。生きがいは何か。なんでもいいですが、そういうことができるかどうかで健康状態を判断したらいいのです。体力が落ちてきたら、体力にあったことをすればいい。若い者にはまだ負けんというのはよくありません。口は達者でも年寄りは年寄りです(笑い)。70 歳代には70 歳代の生き方があるはずです。老人になっても勉強すれば脳は発達することがわかってきています。そういう形で生きることができればボケにもならず、死ぬまで元気でいられるのではないでしょうか。

薬の副作用とか、検査による事故、いわゆる医療過誤に会わないためには病院に行かないことです。これも、何が何でも行かないというのはよくありません。原則として病院に行かない。しかし、「これはいつもと違う」と感じたときはすぐに病院に行くべきです。例えば、ちょっとご飯がおいしくないというとき、飲みすぎたとかしつこいもの食べたなど自分で原因を判断できるときは行かない。ところが、「もし胃癌だったらどうするの。すぐに病院に行きなはれ」と奥さんに尻をつつかれてしぶしぶ検査を受けるのは考え直したほうがよろしい。自分で納得できる理由が分かっている時は様子を見るのです。

信仰者からいえば神様のご守護ですけど、医者の立場からいえば、時間という薬があるのです。神様が働いてくださるのに時間が必要です。自然治癒力とも言いますが、これが働くためには時間がいります。自然治癒力を引き出すためには、心の持ち方も重要です。「大丈夫やろか。やっぱり病院へ行った方がええんやろか」。そういう不安な気持ちでじっと待つのと、これは大丈夫だと神様に凭(もた)れて過ごすのと全然違ってききます。

風邪というのは、緊張が解けた途端にひくのです。ほんとに忙しい時、これは絶対にやり遂げないといけないというような時は風邪なんかひかない。これは精神論ではなしに、実際に証明されています。生き生きとして何かに打ち込んでいるときは身体の中に免疫力が高まっているのです。昔、先輩達から「風邪ひくのは根性が入ってない」と怒られたら、理不尽と思いましたが当たっている面もあるのです。ですから病院に行くかどうかは自分で判断する。大したことがないと判断したときは様子をみるが、この間の心の持ち方が大事だと思います。

患者さんと病院との関係ですけど、患者さんが自分で自分のことを判断できない人が増えてきています。風邪かどうかさえも判断できない。風邪だとか決めてもらうために病院に行く。せっかく大きな病院に行ったのに検査をしないで「風邪」と言われたが、実は肺ガンだったということになれば後で訴えられるというので、病院側も大部分は検査します。「風邪くらいで病院に来るな」という医者がいたら、その医者はまともな医者ですが、診療拒否で投書されることもあり、難しくなっています。最近読んだ本で、ある大学院では血液検査、胸部のレントゲン写真、CT まで撮って風邪だと診断した例が紹介されていました。患者さんも、「やっぱり風邪ですか」と喜んで帰っていかれる。つい笑いそうで、実際は笑えない話です。

もう少し自分の身体を信用するというか、自分の内なる声に耳を傾ける。やりたいことが一杯あるかどうか。やる気満々で毎朝目が覚めてるかどうか。こういうものがないと、風邪かどうかすら分らない。健康かどうか医者に決めてもらうということになるのです。

前に「老人と健康」のところでも申しましたが、「自分のやりたいことが出来たら健康」だと私は考えています。何かをするために体が耐えるかどうか。私はゴルフを少しやるのですけどゴルフほど面白いものないですね。天候が悪かろうが寒かろうが意に介しません。小々ぐらいの風邪だったら家人が心配しても「大丈夫!」といって出かけて行きます。これが私のいう健康なのです。健康は難しく考えなくても、毎日勇んで生活できているか。やりたいことが常にあるかどうか、朝スッキリと目が覚めるているかどうか。実はそういうことの方が検査よりも確かといっても言い過ぎではありません。

第五章 “健康に死ぬ”ということ

“健康に死ぬ”ということ

皆さんはテレビや雑誌などマスコミを通じて健康に関して細かいことをいっぱい知っておられます。しかし自分自身はどうしたらいいのか迷われるのではないでしょうか。昨日、東京へ行き大きな本屋さん立ち寄ったのですが、『健康のためなら死んでもいい』という本が置いてありました(笑い)。健康のためにこれがいいと言えばこっちへ走り、あれがいいと聞けばあっちへ走る。これではまさに健康のために生きているようなものです。

レジュメにも書いておりますが、「健康になりたいという病気」が流行しています。とにかく健康になりたい。では何のためにですか?長生きがしたい。長生きしてどうするのですか?結局は死にますよ(爆笑)。では、健康に気をつけていたら安らかに苦しまずに死ねるのでしょうか。いつまでも息が切れないかもしれませんよ(爆笑)。管をいっぱい体中に突っ込まれる。鼻から、口から、のどから、手や足から。スパゲティのような管がいっぱいですからスパゲティ症候群といいます。

医者も看護婦も忙しそうに走り回っていて、家族は「廊下へ出てください」と言われる。家族に看取(みと)られず別れの挨拶もできない。管をつけたたまま息を引き取り、「どうぞお入りください」(笑い)となります。長生きしたい、長生きしたいの挙げ句、そういう最期になったらどうしますか。

健康について改めて考えますとき、「健康に死ぬ」ことが健康の究極の目標だと私は思うのです。ポックリ死にたいから「ポックリさん」にお参りする。これでは神頼みで実現は難しいと思います。元気なうちからいろんなことを考えて実行する。自宅で亡くなりたいのであれば、家族のバックアップが不可欠ですし、看取っていただくお医者さんと普段からよい信頼関係をつくっておく必要があります。

もし、「あなたはがんですよ」と言われたらどうしますか。言われたら言われたとき、その時に考えるというのではダメです。シミュレーション(模擬実験)する必要があります。自分にがんの疑いが出てきたら、病院に行くのか行かないのか。病院に行っても積極的に検査を受けるのかどうか。仮定の話として考えるのです。

現実味がないというのであれば、自分の身内や親しい方、友達でもよろしい。探せばがんになった人がおられるはずです。日本人は長生きするようになって、2人に1人はがんになっているのですから。自分はがんにならないと信じたり、ならないように言い聞かせてもダメです。がんになられた知り合いの人の経過を見ながら、自分ならどうするか考えるのです。このように普段から死ぬことを真剣に考えていてはじめて思い通りになる可能性が出てくると思うのです。

病葉。ワクラバと読みますが、秋になりますと落葉樹は散る前に紅葉し、冬が来る前に散っていきます。ところが、ほとんどの葉っぱが散ったのに、数少ない葉っぱが残っている。よく見ると、葉っぱが部分的に欠けていたり色が綺麗(きれい)に紅葉してない。あれが病葉です。健康な葉っぱだから春に芽を出し、夏に茂り、秋になって赤くなり、冬になる前に散っていくわけです。ところが病んでいる葉っぱは、その時季が来ても散ることができない。ですから散るのにもエネルギーが必要なのです。人間が亡くなるときも、気力や体力が残っているから死ぬべき時に死ねるのではないでしょうか。

これに関連して良寛さんのことを思い出します。良寛さんを知らない人はないと思うのですが、子どもが好きで鞠(まり)付きをして遊びました。年をとってから年若い尼さんと大恋愛をされたことでも有名です。ご存知の方も多いと思いますが、良寛さんの辞世の句は「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」です。私は俳句の勉強しておりませんが、この句を詠むたびに病葉(わくらば)のことが頭に浮かぶのです。良寛さんは、災難に遭う時には災難に遭うのがいい。病気になる時は病気になった方がいい。死ぬ時は死んだらいいんだということをおっしゃっていますけれども、まさにそのことをこの句で表現しているように思います。病葉にならずに散ることは、人間が健康に死んでいくことをイメージとして表していると思います。

これほど健康とは幅広く奥深いものです。住んでいる日本という国が社会的に健康かどうか。この世に生を受けてから死んでいくまでの時代の流れで見た時の社会の健康はどうか。私たちはこの社会、この時代に生きており、健康は一人ひとりに与えられたものであることを知る必要があります。

“たましい”の健康

繰り返しますが、「体の健康」は健康の一部分です。健康は全人的にとらえる必要があります。図で示しますと、「体の健康」、「心の健康」、「社会の健康」の3つの輪がそれぞれ部分的に重なった形になります。そして3つの輪が真ん中で重なったところが「魂の健康」です。

“たましい”を持ち出したからといって、胡散(うさん)臭い話だと思わないでください。霊魂としての“たましい”もありますが、私が申します“たましい”は誰でも持っていて、肉体が滅びても消えないものです。

自分の知っている人が亡くなられたとします。火葬されたらもう奇跡の起こりようがありません。では、火葬場で煙がすうっと上がったときに、亡くなった人の思い出などが皆さんの頭から同時に消えていくでしょうか。いいえ記憶の中から消えません。亡くなった方の思い出も“たましい”だと私は考えるのです。こうした意味の“たましい”は、信仰しているかどうかは関係ありません。

“たましい”について別の説明をしましょう。人間はなぜこの世に生まれてきたのでしょう。両親が恋愛したからとか、結婚したからでは納得できません。同じ親からでもぜんぜん違う人間が生まれてきますし、現代はクローン人間を作ることが可能になってきています。なぜ生まれてきたのか、なぜ生きていかねばならないのか、生きる意味は何なのか。これは“たましい”に関係した悩みです。

みなさんは病気のことに神経を使っていらっしゃいますが、最近は自殺が増加しています。身体には異常がない、生活にも何の不自由もないのに死んでしまう。ほんとの原因は本人にしか分かりませんが、“たましい”の悩みや苦しみからきているものも多いのではないかと私は考えています。

日本人の死因統計では、一位ががん、二位が狭心症や心筋梗塞などの心臓病、三位が脳梗塞や脳出血などの脳血管の病気、四位が肺炎です。ペニシリンやマイシンなどいい薬ができたといっても、薬だけでは肺炎は治らないことを意味しています。五位が事故で六位が自殺です。交通戦争といわれる交通事故死は年間1万人くらいですから自殺の3万人はいかに多いかです。自殺の多くが「たましいの健康」と関係するとすれば無視できません。

もう一つ“たましい”に関係したことをお話します。がんになったときの最初の苦しみはなんだと思いますか。耐え難い痛みなどというのは病気が進行してからです。それは、「なぜ自分ががんになったのか」という疑問や怒りです。なるべくしてなったのではない。世の中にはがんになってもいい人がいるではないか。自分はこれまで世のため人のためにいいことを努めてしてきた。人の世話になったことはほとんどない。その自分ががんになった。いいたいことを言い、したいことをして生きている人がなぜがんにならないのか。神はあるのだろうか。この世に生まれてきた証(あかし)は消え、まったく無に帰するのだろうか。これも“たましい”の苦しみです。こうした“たましい”の問題を普段から避けていては、安心立命というか悠悠自適の生活はできません。

WHO 世界保健機構で作成した有名な健康の定義がありますが、現在見直しが検討されています。「健康とは単に体が弱いとか、病気でないとかいうだけでなく、体、心、社会的にも健康」と今までいわれてきたのですが、そこにさらに「霊的 spiritual にも健康」という言葉をプラスすることが検討されているのです。スピリットは言葉をかえれば魂です。信仰の有無に関係なく「魂の健康」があってはじめて本当の健康であるという考えが世界共通の認識になりかけているのは素晴らしいことだと私は思います。

おわりに

人間はいくら健康に気をつけていても結局死ぬわけです。誰でも死ぬのは怖いですが、それを受け容れることができるかどうか。最期にみんなに見守られながら「ありがとう」という一言が言えるかどうか。これを実現するのは簡単ではありません。遺言など書いておってもあてになりません。後に残された人が守ってくれるかどうか保証はありません(笑い)。ふだんから、近しい人との付き合いを大切にし自分のことをよくわかってもらっておき、「いつも言っていたようにしてやろう」という好ましい家族関係を築いておく必要があります。

最後に今日お話したことをまとめますと次のようになります。

  1. 健康にいいことをいろいろやったけど、かえってマイナスになっているということもあり、「計算合って銭足らず」にならないようにしなければならないこと。
  2. 「身体の健康」も大事であるが、「心の健康」、「社会的な健康」、「魂の健康」も揃って真に健康であること。
  3. 自分の価値観とか生き甲斐を中心にして健康を考え、やりたいことができれば健康といえること。
  4. どんなに健康に努力しても人間は死ななければならない。最期に安らかに死ねるかどうか、いわば「健康に死ぬことができるかどうか」が健康の総決算になること。

これらのことを頭に置いて、賢い生き方をしていただきたいと思います。

長時間、ご清聴ありがとうございました。

メモ

本稿は、冒頭にも記しているように、2001 ( 平成 13 ) 年 2 月 11 日、兵庫県加美町婦人会「女性の集い」においてなされた、天理よろづ相談所病院 前副院長 今中孝信氏の講演記録です。

講演の中でも触れられているように、氏は、ご友人たちの協力を得て、講演を録音したテープから原稿を起して、小冊子として配布しておられます。

なお、内容と表現は氏自身によって添削されており、さらに、同じテーマでなされた講演(天理教道友社文化フォーラム(三重教区)および天理教本荏大教会神殿講話)の一部が追加されているとのことです。

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小冊子の校了原稿をテキスト・ファイルとして提供して頂きましたので、ウェブ文書としての体裁を整え、氏の許可を得て、皆さんの閲覧に供する次第です。

手っ取り早く内容を知りたい人、参考文献などを知りたい人は、レジュメ(要約配布資料)をご覧ください。

木原 記す

新刊のご案内

2001 ( 平成 13 ) 年 10 月 1 日、今中孝信氏の新刊、『健康に生き 健康に病み 健康に死ぬ』が天理教道友社から出版されました。\1,200.-(税抜き)です。

この文書 - 「健康」について考える - をここまで読んで下さった方であれば、きっと、この新しい本をお読みになっても、「ちぇっ、何だ、損をした」という事にはならないと思います。ご一読をお奨めします。

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一般の書店でも買い求めることが出来ると思いますが、天理教杉原谷分教会にも多少の在庫があります。お近くの方は電話などで問い合わせてみてください。木原にメールを下さっても結構です。

2001/10/12 木原 記す

2001年7月,10月

最終更新日 : 2011-01-19