啓作と悠助

啓作と悠助は僕とかみさんの間に生まれた双子の男の子である。1999年6月30日に生まれたので、現在、1歳と6ヶ月だ。

古風な名前だと思う人が多いだろう。命名した僕もそう思う。いかにも今風な名前は気恥ずかしいという気持ちがあったのだが、少し古風に過ぎたかなとも思う。しかし、良い名前だと思うのだ。

それと、双子らしくない名前だと思う人も多いだろう。二人で一組に見える名前は意図的に避けたからだ。一人一人に独立した名前を付けたいということで、珍しくかみさんと意見が合った。

名前は、命名される側からすれば、自分の意思とは無関係に与えられるものだから、あるいは将来、不平を言いたくなることがあるかもしれない。しかし、彼らの親として僕とかみさんとを選んだのは、神様だと思うのだ。一所懸命に考えて、神様が関与してくださることを祈りながら付けた名前だ、彼らが受入れてくれる事を願う。

一卵性双生児

おそらく、二人は一卵性双生児だろう。

本当のところは DNA 鑑定でもしなければ判らないそうだが、かみさんが担当の医師から聞いたところでは、胎盤がひとつであり、二つの臍の緒の中を同じ血液が流れていたことが判ったので、一卵性だという事だ。そして、かみさんが二人を連れて双子の会へ行っても、「木原さんとこはホンマによう似とる、見分けがつかへん」と言われるそうで、双子の母親たちさえそう言うのだから本当によく似ていて、だから一卵性に違いないのだ、とかみさんは言う。

「卵子は一つでも精子が二つやった、ということは無いやろか」と僕が言っても、「そんなこと有る訳ないやんか、アホか」と言って取り合わない。

いや、一卵性でも二卵性でも構わないのだが、こんなにはっきりと個性が違うのに、本当に一卵性なんだろうか、と疑問に思う事もある。

身体的な特徴

身長はほとんど変わらない。

体重は悠助が啓作より 500 g 以上重いようであり、四肢も胴体もその分太い。

これは、誕生のときからそうだった。啓作は 1746 g で生まれ、悠助は 2036 g で生まれた。その時の差がいまだに縮まらない。

そう、双子のこととて、かみさんのお腹が持ちこたえなくなって、一ヶ月半ぐらい早く生まれたのだ。今から思うと、怖いぐらいに小さかった。今では二人とも 10 kg を超えているが、それでも、同じ年頃の幼児に比べると、はっきりと小さいようだ。

体格の他に目立った特徴としては、つむじだろう。「ぎりぎり」って言いうのかな、頭髪の中心部の渦、あれの巻き具合が違うのだ。

啓作はつむじが左巻きだが、悠助のは右巻きで、しかも二つある。

ちなみに、僕のは二つあって、一つが右巻き、もう一つが左巻きだ。シンメトリックな美しいつむじなので、手遅れになる前に拓本にでもとって保存しようと考えている。いや、近年そのあたりの頭髪が薄くなってきたらしいのである。かみさんなど、僕を「こら、ハゲ」と呼んで憚らない。自分では、鏡の前に立っても見えないので、自覚に乏しいのだが、うーん、どうしてくれよう。

話がそれたが、体重はともかく、つむじは遺伝的に決定されるものではないのか、と思う。だから、本当に一卵性なのか、と疑問に思うのだ。二人のかかりつけの小児科医に訊いたのだが、「さぁ、どうなんでしょう」としか答えてくれなかった。

WWW で調べた結果、一卵性双生児でも指紋は異なる、という記述を発見した(「一卵性双生児も指紋は違います」)。つむじも指紋と同じで、違っているからと言って一卵性双生児でないことの証拠にはならないのだろう。多分。

性格・行動パターン

二人の性格や行動パターンは明らかに違う。それはもう別人だとしか思えない。というか、実際、別人だから違って当然だ。しかし、一卵性の双子を見ると、同じ人間が二人いると思う人が多いのではないだろうか。僕自身が、彼らの親になる前は、双子をそういう目で見ていたような気がする。しかし、本当に、二人は別の人間なのだ。

啓作 悠助
倒れてもあまり気にせず、どんどん前へ突き進むようにして、歩き方を覚えた。今でも、おでこに傷を作ることが悠助より多いようだ。 一歩一歩、慎重に確かめるようにして歩くことを覚えた。最初は、片方の足しか前に出ず、コンパスのように、その場でぐるぐる回っていた。
食物の好き嫌いは少ない。初めて口にするものでも、構わずに食べる。 食物が気に入らないと、べぇー、と口から出す。初めてのものには警戒心を抱くらしく、啓作が美味そうに食べるのを確認してから、おそるおそる口にする。
僕では寝かしつけることが出来ない。かみさんが居ない場合はあきらめて誰とでも寝るが、かみさんが近くに居る場合は他の誰とも寝ようとしない。 僕でも寝かしつけることが出来る。一時期、今の啓作のように、かみさんでなければ寝付かないことがあった。(そう言えば、その頃、啓作は誰とでも寝ていた。)
ダークな色が似合う。 明るい色が似合う。
「ハンサム」系の顔付き。 「かわいい」系の顔付き。
淡白な気性。あきらめがよい。 「しつこい」(かみさんの弁)。あきらめが悪い。
大きな声で「ばばー」とおばちゃんを呼ぶ。 猫なで声で可愛らしく「ばばー」とおばちゃんを呼ぶ。ちなみに、この言葉を教えたのはかみさんである。

なぜ違うのか、いつから違うのか

なぜ啓作と悠助はこのように違うのか。

遺伝的には、多分、まったく同じだ。環境的にも、そんなに違うとは思えない。それが、今では、全く別の人間であることを疑い得ないほどに、違っている。いや、生まれたそのときから、すでに、違っていた。もちろん、今ほどはっきりと性格や行動パターンが違っていた訳ではないが、顔つきや体つき、手足の動かし方や泣き方、そういう一つ一つとしては些細な事柄が少しずつ、しかし、はっきりと違っていた。そして、そういう些細な違いは、「啓作は啓作、悠助は悠助」と言いたくなるような、二人が別の人間であることの確かな証拠であるように思われた。

生まれる前の環境の違いといえば、かみさんの腹の中で、悠助が啓作の上に乗っていたことと、啓作の方の臍の緒がちょっと細かったことぐらいだろうか。そういう環境の違いが生まれたときの体格の違いとなったことは理解できる。けれども、そういう肉体的な条件の違いだけで、二人の性格や行動パターンが違ってきた理由を説明できるのだろうか。

こういう言い方をすると、きっと、反感を抱く人がいると思うのだが、僕は、生まれる前から啓作は啓作のたましいを、悠助は悠助のたましいを持っていたのだと思っている。

子宝とか、授かり物とか

二人の性格について述べることは、もう、あまりしたくないと感じている。彼らに対しても失礼だと思うからだ。一般に他人の性格をとやかく言うことは品の無いことだと思うが、それと同じことで、自分の子であっても、あいつは性格がどうだ、などと人を値踏みするような言葉は慎むべきであると思う。

つまり、子であっても、子である前に人間だという、ある意味で当然のことを今更のように思う。

子宝とか、授かり物とか言う。子は親にとってかけがえの無い大切な存在であること、子は親の思い通りに生まれてくるものではないことを言うのだろう。そのことに異存は無い。

しかし、誰かが言っていた、「子は預かり物だ」と。僕も同感だ。

啓作や悠助は僕の自由にできる所有物ではない。かろうじて僕のものであると言えるとすれば、僕が彼らの親であるという関係だろう。しかも、それさえも、やがては終わりが来る。さよならだけが人生だ、という訳だ。いつかは返す時が来るという意味で、「預かり物」というのはまさしく当を得ている。

ところで、誰から預かっているのか。神様からだ、と僕は思っている。

思考実験

一卵性双生児は、いろんな場面で、思考実験の材料に使われることが多いように思う。

例えば、占い。例えば、相対論のパラドクス。例えば、遺伝と環境と自由意志。そして、例えば、クローン。

このページを書き始めたとき、僕は、人間のクローンについて考えてみたいと思っていた。しかし、どうも、気が進まない。

啓作と悠助は全く同じ遺伝子を持っているが、どちらかがどちらかの複製であるということは全くない。二人とも、一個の独立した人間だ。どちらかをどちらかの従属物とみなしたり、取替えの利くスペアとして扱ったりすることは、考えるだけでも忌わしいことだ。

今は、これ以上は考えることができない。

2000年1月

最終更新日 : 2011-01-19