樂しい日記 2012年2月

2012 年 2 月 9 日 (木) *

安全圏におけるフクシマの問題

以下は、2011年11月6日から11月8日にかけての一連のツイートである。確認の意味を含めて再録した(若干、字句を修正)。

特に書き換える必要がある事は無かった。


兵庫県に住んでいる僕自身にとっては、原発事故による放射能災害は、ある意味で対岸の火事であり、「除染か避難か」に代表される核災害対応策の問題は、切実なものではない。そういう問題に関して感想や意見を述べたとして、どれだけの意味があるか疑問だ。

それよりは、安全圏である兵庫県に住んでいる者として、「フクシマ」がどういう問題を持っているのかを考える方が、役に立つだろう。「フクシマ」は兵庫県民にとってどういう利害関係を有するのか、という事を考えたい。

なお、「安全圏」として僕が想定しているのは、早川マップで 0.125μSv/h の等値線の外縁から更に 100km 以上離れた土地だ。兵庫県に住んでいる「危険厨」の僕としてはそんな感じ。線引きの当否は、ここでは問題にしない。

安全圏に居住する者にとって、最大の関心事は、放射能災害の巻き添えを食いたくない、という事である筈だ。汚染された農産物・海産物・食品を食べたくない、汚染された瓦礫を持ち込ませたくない、汚染された車で来て欲しくない。それは当然の事だ。

しかし、安全圏において、放射能災害の巻き添えを食いたくない、という当然の事があまり声高に主張されていない。どうしてなのか、と思う。一つには、現に進行中の放射能災害の危険性に対する驚くほど過小な評価が定着しているからだろう。

あるとき、僕の友達が「広島や長崎でさえ20年も経ったら立派に復興した。福島も大丈夫。大袈裟に言いすぎ」と言った。「戦争、爆弾」と「発電所、事故」という言葉にだまされて、どちらが大きいかを見誤っていた。そういう誤解をしている人が多い。

安全圏において放射能汚染に対する忌避が声高に主張されない理由は、危機の過小評価以外に、「みんなが言っていないから自分も言わない」という心理と「自分の利益をあからさまに主張するのは恥ずかしい」という心理だろう。

マスコミは「自分の利益を主張するのは恥ずかしい」という心理を突いて世論操作する。「絆」、「ガンバレ東北」、「がんばろう日本」、「福島を応援」。合言葉に抵触する可能性のある意見は、「差別」、「利己主義」、「風評被害」として抑圧する。

放射能災害の巻き添えを食わないために安全圏で取るべき対策は何か。最も重要なことは、汚染された食品による内部被曝を避ける、という事だろう。これは、今のところ、危険が無いと思われる産地や生産者の産品を選ぶという方法しか無い。

食品からの内部被曝を防ぐ方法(食品を選択するノウハウ)は、放射能被災地でも安全圏でも、大きな違いはない。危機感が薄い分、安全圏の方がノウハウが不足している感もある。ただし、「地産地消」を進めることが出来るのは、安全圏であるがゆえの恩典だ。この点はかなり有利。

脱線。食品の持ち込みに対しては大甘なのに、瓦礫に対する拒否反応が大きいように見える。これは、近隣にゴミ処理施設や火葬場を建設して欲しくない、という一般的な禁忌感情から説明できそう。松明や花火は、燃えて煙と灰になる物に対する恐怖か。

食糧品に限らず、汚染された物を放射能被災地から持ち込むなと言うのは、安全圏に住む者にとっての正当な主張だ。この主張は安全圏に住む者の利益に合致し、被災地に住む者の利益に反するだろう。しかし、だからと言って不当な主張だとは言えない。

「汚染された物を放射能被災地から持ち込むな」という主張が正当であるのは、「放射線管理区域から汚染された物を持ち出してはならない」というのが正当であるのと同じである。「インフルエンザに罹ったら治るまで登校するな」というのが正当であるのと同じである。

何が「汚染された物」であるかという問題は、計測して値を示せば解決すると思う。差し出す側と受け入れる側の利害が反するので、基準値の問題は残る。しかし「選ぶ権利はあるが、選ばれる権利はない」。http://t.co/ryKr5S83

食品の問題について、一つ大事なことを言い忘れた。学校給食だ。潤沢な予算を持って学校給食を運営している自治体は少ないと思う。危険な食材が紛れ込むおそれは、家庭の台所より高いのではないか。議会議員などを突っついて、実態を明らかにしなくちゃ。

教育行政はほんーーーとに当てにならない、というのが僕の実感。当地の中学校は、今年度の初めに、H24年度の修学旅行先を東京方面とする方針を変えない旨をアナウンスした。理由は、既に震災前から決定していたから、とか何とか。

放射能被災地に行くと被曝する。大学生が自分の意志で行くのは構わない。けれども、教師が小中高校生を引率して放射能被災地に連れて行くことに対しては、「モンスター・ペアレント」「差別者」「人でなし」と呼ばれようとも、反対しなければならない。

あー、こうして書き連ねていると、だんだんと気が滅入る。しかし、被災地と安全圏とでは基本的に利害が相反する、ということは事実だと思う。 「災害ユートピアから脱却せよ」 http://t.co/fUiTof31

安全圏に住む者が放射能被災地に住む者に対してどういう支援を提供できるか。真っ先に思い付くのは、避難の受け入れだ。僕の住む田舎なんか超過疎地だから空家は潤沢にある。来てくれれば人が増えて嬉しいぐらいだ。ただし仕事は無い。

避難・移住の受け入れについては、もっと積極的に政策を展開できる筈だと思う。金と手間と知恵を絞り出すなら、除染より避難・移住に出す方が良い。放射能被災地よりも避難・移住の受け入れ先にお金を落す方が、より大勢の人を救うことになると思う。

除染ボランティア。放射能被災地に行くと被曝するが、除染ボランティアは汚染された土やゴミをかき集める作業だから、それ以上に被曝する。僕を含めて、年寄りは、承知の上で行きたかったら行っても構わないと思うが、若い人は行かない方が良い。

安全圏と放射能被災地とは基本的に利害が相反する。しかし、日本という国のレベルで考えれば、あるいは、人という個のレベルで考えれば、被災地に住む人を支援する政策には、安全圏に住む者にとっても、支持すべき理由がある。冷たい社会、冷たい人は嫌だからだ。

「安全圏」と言うが兵庫県のどこがいったい安全なのだ、という話もある。すぐそばの福井県には「原発銀座」がある。危険だから直ぐに全て止めて欲しい。脱原発には当然賛成する。しかし、現在進行中の放射能災害の対策の方が優先順位が高いと思う。

「安全圏」に住んでいる僕としては、自分自身にとっての利害を明確に述べて初めて、「除染か避難か」みたいな論議に参加できそうな気がする。ただし、それも、「明白に無駄だと分っている事や、一部利権者だけを利する事に国の金を使ってくれるな」というレベルにとどまる。

(ふう。これで、ここ数ヶ月もやもやと考えて来たことは、だいたい全部吐き出したかな。「兵庫県に住んでいたら、なんとまあ、のんきなもんだなあ」という溜め息が聞こえてきそうだ)

もうひとつ、差別、特に、結婚にまつわる差別の問題を忘れていた。放射能災害の被災者と子孫は、広島・長崎の被爆者とその子孫が受けたのとよく似た差別的な扱いを受けるようになる。

「被曝者だから雇傭しない」、「被曝者だから近隣に住まわせない」というのは、不合理で非倫理的な差別だろう。そういう差別は、「被曝者に近寄るとこちらまで被曝する」というような誤解を解いて、無くすようにしなければならない。

一方で「被曝者とは結婚しない」ということには、被曝による遺伝子損傷が子孫に悪影響を及ぼす可能性がある以上、不合理で非倫理的だとは言えないだろう。ここでも、「選ぶ権利はあるが、選ばれる権利はない」 http://t.co/ryKr5S83 と言わざるをえない。

ただし、他人に「被曝者とは結婚するな」と指図するのは、余計なお世話というものだ。

(誤解ではない極端な境界的事例も有り得るかも知れない。僕にはよく分らないが、それは無視出来るぐらいに少数だとして、、、) @softark:「被曝者に近寄るとこちらまで被曝する」というような誤解

(僕が一番頼りにしているのは西風)

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