天理教社会福祉施設連盟・職員研修会

2002 ( 平成14 ) 年 8 月 24 日 第38母屋

元天理よろづ相談所病院副院長 今中孝信

宗教は一人ひとりのもの

今日いただきましたテーマは「宗教と医療」ということですが、これはとてつもなく大きなテーマではないか思います。皆さんは、このテーマをお聞きになった時、どのように考えられるでしょうか。宗教と医療はどのような関係にあると考えられるでしょうか。

一般的には、両者は対立的に考えられていると思います。なぜ、対立するのかと言いますと、医療は科学に基づいており、科学と宗教は異なったものであると考えられているからです。科学の世界は、すべて理屈に基づいています。誰がやっても、何回繰り返しても、やり方が決まれば同じ結果が出てくるべきだとします。こうした科学の特性を、論理性、客観性、再現性、普遍性といいます。普遍性は、別の所で試みても同じ結果が出る。日本でしたことがアメリカでも通用するということです。

戦後、医療がものすごく速いスピードで進歩し、国民から信頼されるようになったのは科学のお陰です。医療は科学によって土台がしっかり支えられているから安定し、素晴らしい成果を次々に出してきました。

そういう観点から医療をとらえると、宗教はどうなのだろうということになります。科学の特徴と一部共通するところがあるとすれば、人を助けるということではないでしょうか。宗教もいろいろありますから、病気だけではないでしょうけれども、例えば、宗教を信仰することによって病気が良くなるということがあります。もちろん、医療は病気を直すことを目的としているのですから、そういう意味では共通性があります。

科学を装った宗教というと、オウム真理教のような、いわゆるカルトと言われる特殊な宗教もあります。宗教とはたして言えるかどうか疑問ですが、化学兵器と称してサリンを製造し、実際に撒いて殺人を犯しました。カルトと言われる宗教は他にもいろんなものがあり、信者が集団自殺してしまうような宗教もあります。このように訳の分からない宗教もありますが、一般的に言いますと、宗教というのは心の平安を得ることを目的とするものです。心を癒してもらう、たすけてもらう。宗教によって生き方が変わり、より前向きに、幸せに楽しく暮らせるようになる。信じきって、教えに従って実践すればそうなると教えられます。

しかし、信じない人にとっては全然関係ありません。信仰はしないけれども、宗教によってたすけられていることもないとは言えませんが、それは言ってみればまじないのようなものです。あまり具体的なことを言うと問題がありますから申しませんが、まじないのようなことをする宗教もあります。それで良くなるということも言われていますが、宗教によって病気が良くなるというのは、宗教の一部分です。結果としてそういうこともありますけれども、根本的には信仰によって生き方が変わる。ものの考え方、価値観、何が大事で何が大事じゃないかということを教えてもらい、それを実践するということだと私は考えています。

ということは、宗教は一人ひとりのものなのです。皆そろって村の氏神さんにお参りするというのも宗教の一部かもしれませんが、一般的には一人ひとりのものではないでしょうか。だからこそ個人の受け止め方、生き方や実践によって答えが違ってくるのです。信仰を熱心に勧める人があって、その通りにしたけれどもいい結果が出なかった。あんな宗教は詐欺だと言われるケースも出てくるのは当然ともいえます。

ボランティア活動と「ひのきしん」の違い

私の家は天理教の教会です。昔は布教師が詐欺だといって警察に引っ張られることがあったと聞きました。布教師に「物にとらわれないで、体をきれいにしなさい」、「お金なり自分の一番大事なものをお供えしなさい。それがたすかる第一歩です」と言われて、そっくりそのままお供えしたけれど、病気は良くならない。逆に亡くなってしまった。そうすると「これは詐欺だ」というわけです。

こうした布教活動は命懸けというとオーバーかもしれませんが、逮捕されるのを覚悟しながら、その人をたすけるため教えを説くのです。お供えしてもらったお金を布教師がポケットに入れるわけではありません。しかし、生き方を変える、価値観を変えるというためには、それぐらい思い切ったことをしないとなかなか変われないということだと思います。

天理教では、「ひのきしん」という奉仕活動がありますが、ボランティア活動も無償ですから、世のため人のためになることをするという意味では共通です。しかし、ボランティア活動とひのきしんの間には大きな違いがあります。自分の家がどうなっても自分の身はどうなってもボランティアをさせてもらおうという人は例外ではないでしょうか。普通は、少し余裕もできてきたし、自分もいろんな人にお世話になっているのだからお返ししないといけないという態度です。これも悪いことでなく素晴らしいことです。

自分の家は家族も多くて経済的にも苦しいし、家の中もいろいろ大変だという時に、「ひのきしんをお願いします」と教会から言われて、「ありがとうございます。行かせてもらいます」と、ポッと言える人、これはすごいのではないでしょうか。

宗教で得られる救済・お陰・ご守護などと、お供えしたからお陰があったという御利益とは、入信の入口は同じであっても、全然違います。人間は損得で動いているところありますから、御利益信仰もおかしいとはいえませんが、宗教の奉仕活動というのは、借りたお金を返済するとか、人間関係で世話になったからお返しするとかいう世界ではありません。神さんに対する報恩感謝の世界です。

信仰していない人は「私は神さんなんか認めない」と言うかもしれませんが、神さんという言葉が嫌いな方はこの宇宙・地球・人間を創られた創造主と考えられてもいいと思います。これを「大自然」という言い方もします。

人間はいのちを食べて生かされている

人間は何からできているかというと、タンパク質からできています。お肉でいえば、脂のいっぱい付いた霜降りもおいしいでしょうけれど、タンパク質が人間の骨格を作っているのです。家の建築に譬えれば、柱はタンパク質です。甘いものや果物はカロリー源です。車で言ったらガソリンです。それから脂肪については動物と共通です。例えばすき焼きを食べたら肌がスベスベします。すき焼きの脂が飛んで皮膚がスベスベしたわけではなくて、食べた脂肪がすぐに吸収されて皮膚に出てくるためです。

私は年齢の割に顔がテカテカしていると人に言われるのですが、この秘密は玄米です。玄米は英語でと言うとブラウン・ライス、全然搗いていない黒米のことです。稲穂に実がつき、黄金色になったときに籾(もみ)となります。籾の皮をむいたままの状態が玄米です。

皆さんが食べていらっしゃる白米というのは、その皮を全部取ってしまって、白くするわけです。だから一番大事なところ、玄米の命と言ってもよい部分を捨ててしまっているのです。真ん中の白いところだけを美味しいといって食べておられますけど、体に対して必要な栄養分からいうと、大部分捨ててしまっているのです。

「なんでそんなことが言えるのだ」と思われたら、次のことを試してみてください。昔、理科の実験で使われたシャーレのような入れ物に水を浸したガーゼを敷き、その上に玄米を置くのです。すると、芽を出して来ます。ということは、たった一粒の玄米ですが、生きているということです。何か足らないものがあれば芽を出しませんから、必要な成分は全部そろって入っているといえるわけです。

今、テレビや新聞・雑誌等でさかんに言っています。何を食べたら健康にいいとか、何が足らないとか。ビタミンB1やB122などのビタミン類、カルシウムやリンなどのミネラルなど、高いお金を出して買って飲んでおられる方も多いのではないかと思います。多すぎて、飲むというより、食べるといったほうがよいくらいです。あれでは、逆に身体を壊されないかと心配します。

栄養ということから言うと、食べ物は丸ごと食べるのがいい。できれば生きている状態で食べるのが非常にいいのです。ただ、魚の活け造りとか白魚の躍り食いというのもありますが、生きているうちに丸ごと食べるということは普通できません。干し魚は死んでいますけれど、これを丸ごと食べるのです。そうしますと、頭も胴体も尻尾も、胃も腸も、全部この中に入っています。こうして良く噛んで食べると、体に必要なものは全部取り入れていることになります。

人間の設計図を書いたサムスィング・グレイト

お道の研究者で、遺伝子の研究で世界的に有名な村上和雄先生は天理教道友社だけでなく、一般出版社からもたくさん本を出しておられます。村上先生は、神さん、大自然、創造主のことをサムスィング・グレイト something great と呼んでおられます。こうして英語を使うことにより宗教嫌い、神さん嫌いの人も、サムスィング・グレイトというと抵抗が少ないためもあって、多くの人に受け入れられているようです。

科学大好きというか、科学を信仰している人は、宗教のようなものは認めたくないのではないかと思います。世の中の理不尽なことも宗教は受け入れよと言う。そんないい加減な世界は嫌だ。何でもきちっとした世界が好きだという人に対して、科学をもって創造主の存在を村上先生は説明しておられるのです。素晴らしいと思います。

先ほど話しましたように、私たちの体はタンパク質からできています。そのタンパク質によって男か女か、皮膚の色が黒いか白いか、全部決まってきます。全部、遺伝子にある DNA という設計図に書いてあるのです。DNA は長いヒモです。その設計図に書かれている文字はたったの四文字です。四文字からなぜ設計図ができるかというと、タンパク質はアミノ酸からできています。20種類あるアミノ酸のどのアミノ酸をどういう具合にくっつけるかによって違ったタンパク質ができてくるのです。どのアミノ酸をつくるかを設計図に書くのに、アデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)、の四文字から選び出した三文字の組み合わせで十分なのです。A-A-Aはアミノ酸の何、G-A-Gは何と決まっています。すると、ATGC の四文字から三文字を選び出す組み合わせは 4 × 4 × 4 = 64 ですから、64通りも書けるんです。アミノ酸は20種類ですから、十分すぎることになります。

さらに凄いのは、この設計図が人間も動物も植物もみんな同じ文字を使用されていることです。ということは、誰かが設計図を書いたとしか思えない。人間様だけ別じゃないのです。創造主を神様と呼ぶか、サムスィング・グレイトと呼ぶか別にして、生物の創造主が設計図を書いたとしか思われません。偶然が重なって生物ができ、人間に進化したという説がありますが、たまたま命(いのち)が誕生したのではないのです。

六十兆個の細胞が小宇宙をつくっている

もう一つ、偉大なる存在を考えざるを得ない事実があります。皆さんの身体の中に生きている細胞です。私たちの体は大体、六十兆個の細胞からできています。この六十兆個の細胞の大元(おおもと)は、お父さんからもらった精子とお母さんからもらった卵子が合体した一個の細胞です。お父さんの染色体の半分と、お母さんの染色体の半分とを足して一つになる。それが分裂して二つになり、さらに分裂して四つになる。こうして倍々に増え、六十兆個になるのです。このことは六十兆個の細胞はコピーの繰り返しであり、その遺伝子は全く同じであるということです。全く同じ遺伝子を持ちながら、細胞は顔になったり手になったり、お腹の中の胃や腸になったりしてくれています。元々全く同じ細胞がどこの細胞になるのか誰が決めるのでしょう。誰かが指揮していなかったらできないことじゃないでしょうか。

例えば粘土で彫刻を作るときに、ある部分から少し削って、別の部分に張り付けて、少し見栄えを良くしようとします。粘土は全く一緒です。その粘土が、頭になったり足になったりお腹になったりするわけでしょう。言ってみれば同じことが行われているのです。

この六十兆個の細胞はどんどん死んだり、生まれたりして入れ替わっているのです。臓器によって入れ替わりの早いところと遅いところはあります。血液の細胞や、口の中とか胃腸の細胞は非常に早いですが、心臓とか脳の細胞はほとんど入れ替わらない。どの細胞が死に、どの細胞が死ぬか、誰が決めているのでしょうか。

これをもう少し判りやすく、肝臓移植の例を挙げて話しましょう。日本では脳死者から臓器を受けることが難しい事情があり、子どもさんにはお父さんやお母さんが肝臓の一部分をあげる生体肝移植がたくさん行われています。

お父さんの肝臓の一部分を取って子供さんに移植した後、お父さんの肝臓はどうなると思いますか。トカゲの尻尾切りではありませんが、また再生してくるのです。このことはそれほど不思議でもないことですが、そのとき元の肝臓よりも大きくなるのです。その後、増え過ぎた部分が消えていきます。どうしてそんなことが起こるのかというと、新しく生まれた細胞のうち過剰の細胞が自殺するのです。これをアポトーシス apotosis といいます。

細胞が自殺ではなく殺される例としては、火傷(やけど)があります。火傷の部分はヒリヒリして痛いですし、赤く腫れ上がって熱を持ちます。これを炎症反応といいますが、細胞が殺されているから炎症反応が起こるのです。ところがアポトーシスのときは、炎症反応が全くみられません。いわば、細胞は静かに死んでいきます。自分が死ぬのは嫌だとは言わないのです。しかも死んだ細胞の成分は次に生まれてくる細胞に使われるのです。アポトーシスを決めるのは誰でしょうか。

体内の世界は、大宇宙に対して小宇宙と呼ばれます。すべての細胞はどこの細胞にでもなれる設計図を持っています。にもかかわらず細胞はそれぞれの役割を、文句を言わずに果たすんです。死んで下さいと言われたら、黙って自殺して死んでいきます。次に生まれる細胞のために身を挺して肥やしになるのです。このことを考えてもサムスィング・グレイトの存在を考えないと、こうした現象を説明できないと私は思います。科学は万能だと科学を信仰し、科学以外は認めないと言われる人は、こういう現象をどのように解釈するのか考えてみてほしいと思います。

「憩の家」病院と一般病院の違い

宗教と医療の関係は、三つになると私は考えています。一つは宗教を非科学的であるとして、宗教と医療とを対立的にとらえる考え方です。もう一つはどちらも人を助ける、病気を治すという意味では共通点があり、対等な立場に置く考え方です。三つ目は、天理教の教えである、医療は「修理・肥」とする考え方です。医学・医療の進歩自体が神の働きであるとする考え方で、この場合両者は上下関係にあります。

対等な立場に置き、宗教の力と医学の力と両方合わせて助けてもらったら万々歳だ、という人も結構おられるんじゃないかと思います。例えば、身上(病気)を持っておられる方がおぢばにある修養科に入り、同時に天理教の病院である「憩の家」で診てもらうのです。修養科は修養期間三か月間の修養施設です。

「憩の家」というのは愛称で、正式には天理よろづ相談所病院といいます。天理市にある天理教の建てた病院で、創立当時は東洋一と言われたほど素晴らしいスタッフと設備を整えています。修養科に入れば、修養科と「憩の家」の両方で身も心も助けてもらえる。病気を直してほしいというのも、もちろん入信の大事な動機の一つですから間違った考え方ではありません。しかしそれは一部分であって、おぢばにおける「憩の家」の存在意義とか、修養科に入られる目的というのは、それだけではないと思います。

「憩の家」でかかられても、普通の病院と同じであったらいけないと思います。天理教の統括者を真柱と言いますが、三代目になる前真柱様はこの点について「憩の家」にお入り込みになった時、お話になっています。

「憩の家」は、立派なお医者さんや親切な看護婦さんがたくさんいて、最新の設備も整っており、みんなにいい病院だと言われています。実際に入院してみると、明らかに他の病院とは違うと高い評価を得ています。しかし、最近は、他の病院でも患者さん中心の医療、患者さんに喜んでもらうための医療を目指しており、それと比べて同じであってはいけないと思います。「憩の家」では「笑顔と親切」をモットーにしていますが、「親切にしてもらって嬉しかった」と言われるだけでは、よその病院と変わりません。

前真柱様がおっしゃっている、よその総合病院との違いは何かといいますと、「憩の家」の外来に通ったり入院したりすることによって生き方が変わるというこということです。今まで、一寸したことで腹が立って仕方がなかったのが、それほど腹が立たなくなった。普通だったらとても喜べない状態だけど、やせ我慢でなくいつも安らかな顔をしている。入院して「人が変わった」と皆さんから言われるようになった。

何かお陰があるということでないのです。毎日生かされているのが嬉しくてしょうがない。これを、天理教では「陽気ぐらし」と言っていますが、おぢばに縁をいただくことによって少し「陽気ぐらし」ができるようになる。修養科に入ることによって、「憩の家」に出入りすることによって、このように変わるということが、よその病院と違うところではないかと思います。

「修理・肥」としての医療

宗教と医療の三つ目の関係は、神が人をたすける道具として医療が存在するという考え方です。天理教の教えの原典は三つありますが、そのうちの一つ、「おふでさき」に、「修理・肥」という言葉を使って教えられています。神様と医療の関係は、対立するとか、並立して足らないところを補い合うというのではない。宇宙を創られた神様の働き、ご守護によって医者も薬も作られた。医療は人を助けるための道具であるというのが「修理・肥」の教えです。

機械が故障をしたときは修理します。作物を育てるには肥を施します。人間もこれと同じで、医者や薬は「修理・肥」と考えるのです。具体的には、骨が折れたら手術をして繋ぎ、栄養素が不足している病気には栄養分を補います。手術や薬は一つの道具・手段です。しかし、そういう医療技術を生み出し、お薬を発見したのは、神さんの働きなのです。

繰り返しますが、「憩の家」と他の病院との違いは、入院して病気が良くなると共に、信仰的な生き方に変わる。病気はそういう生活に入られるきっかけになるという受けとめ方です。前真柱様からこのようにお教えいただいてます。

また、私の関係の深い医療に関して言いますと、今、問題が出てきています。一時は、科学信仰と言われるぐらい専門診療がもてはやされた時期がありました。宗教なんていらない。科学に基づいた医療だけでどんな病気も治る時代がくる。恐れられているがんにしても、治療法が進歩すればどんながんも治ってしまうと信じられた時期がありました。

肺炎でどんどん亡くなっていたが、ばい菌をやっつけるペニシリンやストレプトマイシンなどの抗生物質を使うといっぺんに熱が下がって治ってしまう。これも科学信仰、医学は素晴らしいと言われるようになった、一つのきっかけです。それほど信頼を得た、期待が大きい医学ですが、現在、行き詰まっています。

医学というのは科学としての生物学です。その面では確かに進歩していますが、人間というのはそんなに簡単な物じゃないのです。同じ病気の人に同じ薬を使っても、ある人には効くし、ある人には効かないということがあります。例えば、自分が信頼している病院の医師に診てもらうだけで、気持ちが落ちつき楽になるということがあります。そういう先生から薬を出してもらったらものすごく効くのです。

一方、あの医師とはどうも自分と肌が合わない。物の言い方が嫌だ。どうしてあんな突っかかるような言い方をするのだろう。できたらもう診てほしくないと思っている先生から「じゃあ薬を出しときますから」と言われたら、飲む気がしますか。効かないだけでなく副作用が出やすいのです。

嘘と思われる方は、食べ物のことを考えて下さい。これは大丈夫かなと気遣いながら食べたらお腹を壊した。同じものを食べている他の人は何ともないということありませんか。これは胃と腸がそういうふうに反応してお腹が痛んだり、下痢をするのです。

人間は一人ひとりが違います。科学としての医学がいくら進歩しても、全ての人に当てはまる医学というのはあり得ません。そんな治療法はないのです。あるかのように錯覚しているだけです。「この病気には、この薬」と言っているのは原則で、とりあえずこれで治療を始めようということです。その薬が効くか効かないか、副作用が出るか出ないかは、使ってみないとわからないというのが本当なのです。

医療について考えるとき、科学としての医学が通用する部分と通用しない部分があります。肺炎などの急性の病気や、けがとか手術で治る病気には通用します。例えば、白ソコヒといって目のレンズが曇ってきて見えなくなる白内障という病気があります。若い皆さんには関係がありませんが、年をとってくると誰でもなります。治療は、濁ったレンズを人工レンズに取り替えます。そうすると、世の中真っ暗だったのが、手術を受けたとたんに、パーッと明るくなります。この喜びは手術を受けた人しかわかりませんが、これは明らかに医学の進歩です。

手術で言えば、交通事故の大怪我があります。お腹が破裂した時、放っておいたら出血多量で死にますが、手術をすればたすかります。折れた骨もそうです。折れたままにしておいたらつながらなかったり、曲がってつながったりしますが、手術をすれば早く元通りに治ります。折れた骨の中へクギを通したり、金具でガチャっと止めたりします。整形外科のお医者さんが聞いたら怒るかもしれませんが、ほんとに大工さんのようです。

生活習慣病は付き合っていく病気

こういう医学の進歩の恩恵は確かにありますが、医療の一部分です。大部分は、慢性の病気が医療の対象なります。何時なったかわからないような、ジワジワと押し寄せてくる病気です。その人の生き方というか生活習慣が積み重なって出てくる病気です。

糖尿病という病気は遺伝もしますが、大きな原因は食べ過ぎ、運動をしないことからくる肥満です。痩せている人の場合は、ストレスが続いていることが原因になります。そういう生活をズーッと続けているから糖尿病になるわけです。まさに生活習慣病です。糖尿病というのは、薬を飲んでも注射を打っても治りきることはありません。糖尿病という病気を持って、いかに生きていくかということです。

糖尿病には軽い人から重い人まであり、軽い人は生活習慣を変えたら良くなります。食事療法を実践して太っている人が痩せたり、それまで全然運動をしなかった方が、毎日30分以上歩くように運動療法をしたら良くなる人もいます。次の段階の人は薬でよくなります。さらに悪くなりますと、インシュリンを毎日注射しなければなりません。糖尿病はインシュリンというホルモンが不足してくるために起こる病気だからです。このように糖尿病もピンからキリまであります。

いずれにしても、糖尿病になったら治りきるということはありません。きちんと治療を続ければ健康な人と同じように生きられます。しかし、治療を受けずに放置しますと、確実にいろいろな余病(合併症)が出てきます。動脈硬化が進み、心筋梗塞になったり、目が見えなくなったり、足が腐ってくることもあります。腎臓が悪くなって腎不全になり、死ぬまで人工透析を受けなければならない人もあります。

糖尿病の治療は食事療法が基本ですから、目の前にあるご馳走の誘惑に負けないようにするには固い決心がいります。そんな細々とした生き方をしたくない。別に死ぬのは怖くない。自分は食べたいもの食べて死ぬのだという人もいます。しかし、こういう人も心の底では「自分だけは別で、大丈夫だ」と甘く考えているのです。何年かたって、実際に先ほどの合併症による症状が次々に出てくると、あわてて治療を始めます。「やっぱり余病が出てきましたか。覚悟はできています」と言う人はほとんどいません。

人間というのは、心がくるくると変わるものですから、それが悪いということではありません。一つの例として、糖尿病という生活習慣病を取り上げて説明しています。その他の慢性の病気についても言えることですが、自分で病気をコントロールしていかなければなりません。医者の言うとおりにしたら治るという病気ではないのです。

医者は言ってみればマラソンの伴走者です。目の不自由な方でも伴走者がいれば走ることができます。主役は医者ではないのです。走るのは患者さん本人です。「すべてお任せします」とか「悪かったです。これから先生の言われる通りにしますから治してください」と言われてもできない相談なのです。

何故かといいますと、日本人は長生きするようになりました。明治・大正時代に比べると、倍ほど長生きするようになっています。明治・大正といったら平均寿命四十二、三才でした。今、女性が八十五才、男性七十八才です。だからものすごく長生きになっているのです。健康で長生きするためには、自分で自分の体をコントロールしないといけないのです。慢性の病気は、クルマを整備工場へ持って行って点検してもらうのとは違います。

しかし、医学の進歩で助かる急性の病気や外傷については医者中心になります。お任せの医療でよいのです。例えば、交通事故で重傷を負い病院に担ぎ込まれたとき、医者がテキパキと動かないと助かるものも助かりません。必要な検査は素早く行い、手術の必要があると判断すれば、家族の到着を待たずに行うこともあります。「ご家族は全部そろっていらっしゃいますか。一人でも反対の方がおられたら手術できませんから」と言うのは、こういう場合通用しません。先に手術をして、結果の説明は後からです。

生活習慣病とか慢性疾患というのは、七十、八十なって出てくるお年寄りの病気ではありません。三十代、四十代の若い人にも出てきます。今では、十代の中学生、高校生にもみられます。肥満、コレステロールが高い、血圧が高い、糖尿病の傾向がある。こんなのをみると本人の責任ではなく、家族の責任ではないか。本当にかわいそうだと思います。ですから生活習慣病は年齢に関係ありません。こうしたこともあり、成人病という名前を生活習慣病に変えたのです。

我が国では、こうした慢性の病気が医療の主な対象となってきており、これからの医療は医者が主役ではなく、患者さん自身が自分の主治医になる。医者は、お手伝いするというふうに変わっていかないといけないのです。

社会的存在としての人間 - オカミに育てられたらどうなるか

これまでの医療は生物科学としての医学です。分かりやすく言うと体の医学なんです。血を採って検査すると数値が出てきます。ここからは異常、ここからは正常であると判断します。これからの医療は、心の医学を含めた総合的な医療、全人的医療が必要なのです。いくら体の検査しても異常は出ないが、しんどいとか眠れない、胸がどきどきする、頭が痛い、などと訴えられる。こんな方に気のせいだと決めつけないで原因を考え治療するのです。

私は、「憩の家」の総合外来を週1回担当させてもらっていますが、心の悩みやストレスが原因となっている病気で受診される患者さんが少なくありません。いろんな病院を転々として、次々と検査を受けても異常がない。しかし、本人にしてみたら、こんなにしんどいのだからどこかに異常があるに違いないと思い医者のはしごをする。最後は「憩の家」なら病気を見つけてくれるかもしれないと受診されることなります。こうした患者さんは、最初から「頭の CT を撮ってください。MR を撮ってください」と言う人が結構多いのです。

私は、そういう方もお話を聞くことから診察を始めます。すでに検査を済まされて異常がないと言う場合、本人が気づいていない問題が隠れていることがあるのです。それは心の問題とか社会の問題です。

人間というのは体があって心がある。心身ということはよく聞かれると思いますが、社会的な存在でもあるのです。社会の中で人間になり、社会の中で生活できているのです。人間は一人では生きていけません。親から仕送りを受けないで、アルバイトをして大学に通った。自分の力で勉強して資格をとり、今の会社に就職できた。親の世話になんかなっていないと思っている人がいたら大間違いです。

先ほど、人間は遺伝子で決まると言いました。遺伝子に人間になる情報が書かれているから人間に育っていくのです。では、人間の遺伝子を持っている人間の赤ちゃんが狼に育てられたらどうなると思いますか。これはちょっと古い実話ですが、1920年、インドのカルカッタの近くで髪の毛をぼうぼうに生やした化け物が出るという噂がたちました。探検隊が捜索したところ、狼に育てられている女の子の姉妹が発見されたのです。

人間の遺伝子を持っているから人間に育つとは言えないのは、発見された女の子が完全に狼になってしまっていたからです。二本足で歩かず、四つんばいで歩くんです。物を食べるのは口から直接です。イヌやネコと食べ物の取り合いをする。夜になったら狼の声で遠吠えするのです。見てきたようなことを言うと、不思議に思われる方は本屋さんに頼めば、この時の記録を収めた『狼に育てられた子』(福村出版)という本が手に入ります。

この狼に育てられた少女が発見されてから亡くなるまで、何年何月何日にどうしたか克明に記録されています。写真を見ると、女の子なのに褌(ふんどし)をさせられている姿にドキッとします。この女の子にしてみたら、それまで裸で暮らしていたのに保護されてから服を着せられても気持ち悪いと感じておそらく脱いだと思うのです。褌はそのためではないかと思います。

二人を預かられた牧師さんがなんとか人間に戻そうと思って努力されました。言葉を一生懸命教えられたんですが、6年間で30語ほどしか覚えませんでした。非常にショッキングだったのは、妹は一年ほどで亡くなり、姉のほうも9年後に亡くなっています。いずれも人間の寿命は生きてはいないわけです。人間の世界へ戻したら、文化的な生活で長生きできると思いますが、反対なのです。私の推測ですが、女の子たちにとっては毎日毎日がストレスだらけの生活だったでしょう。それまで洞穴の中で生活し、昼と夜がきちんとあったのにいつも電気がついていて眩しい。裸のほうが気持ちがいいのに褌をつけられる。何回も何回も同じ言葉を繰り返し、覚えさせられる等々、ストレスの連続だったと思います。

七十メートルほど離れたところに、鳥の腐った肉が捨てられていても、普通の人間ならわかりません。しかし女の子は嗅覚が発達していますから、腐った肉を嗅ぎつけ、飛んでいって食べてしまうのです。それでも別にお腹は壊さないのです。

何故そういうことになるかというと、「三つ子の魂百まで」ということわざにもあります。人間は、どういう所に生まれ、どういう育てられかたをしたかによって決まってしまうのです。人間の遺伝子をもっていなければ人間には育ちませんが、その遺伝子が表に出てくるか否かは、生まれてからの社会によって決まるのです。私たち日本人が日本語が話せる、日本語が読めるというのは、幼児のときにそういう教育を受けたからです。ひとりでに話せるようになったわけではありません。狼の話は、現代もあり得ない話ではなく、アメリカで、ある親が自分の子供に全く教育をせず、学校にすら行かせなかったという事例があります。そうすると、子どもは人間として成長しなかったのです。

社会は、世界という社会、日本という社会、奈良県という社会、天理市というふうに小さくなっていきますが、最小単位は家庭です。ですから、人間は、社会の恩を受けて自分が存在するということです。若い人がよく口にする「私の勝手でしょう」は許されないのです。

お金さえあれば、自分の食べたいものを、食べたいときに、いつでも買って食べられる。自分のお金で買えば、誰の世話にもなっていないというのも間違いです。例えば、お肉なども、今は一人分だって買えます。きれいにパックされているものを持って帰って、自分で料理して食べられます。確かに見かけはそうです。ところが、牛を屠殺し肉に加工する仕事をして下さっている方がいるから手に入るのです。誰だって牛を殺すことはできません。見えないところで社会の恩を受けていることを知らなければなりません。

私が医学部を卒業した頃は、インターンとして1年間研修しました。その時、保健所実習というのがあり、屠殺場に見学にいったことがあります。大人しい牛、気配を察して泣く豚、血の匂い、眉間を一撃のもとに屠殺する風景が今も鮮やかに目に焼きついています。自分ひとりで生きていると考えている人は、一度そういうところを見学に行かれたらいいと思います。

コンビニへ行けば何でも手に入るのでないのです。そこに置いてある物は、値段が付いているけれども、製品化されて自分の手に入るまでには、多くの方の手にかかっているのです。だからこそ、お金があったら手に入るし、自由な生活もできるわけです。そういう意味で社会の恩を誰も受けているのですが、このことが、今、忘れられています。

「私の勝手でしょ。誰にも迷惑かけてない」という一番いい例が援助交際だと思います。生活に困っているからでなく、欲しい物が買えないから、平気でそういう恥ずかしい行為をするのです。自分の体を品物のように売る。一番大事な人間の尊厳を失う行為であることを教えなければなりません。天理大学で教えられたこともある河合隼雄さんは、援助交際について「たましいに傷が付く」と言われています。

「社会の健康」が損なわれている

健康に関して言えば、体調が悪くて病院に行き、いくら検査をしても異常がないという人の場合は、「社会の健康」が損なわれていることが多いのです。家庭、職場、学校など自分を取り巻く社会に問題があり、心が病んでいるのです。

患者さんはなかなか本当のことを言われませんが、医師との信頼関係ができてくると、いいたくないことも漏らされるようになります。夫婦仲が悪い。子供さんが引きこもっている、家庭内暴力をふるう、拒食症になっている。自分に回ってくる仕事はひとより多いのに誰も助けてくれない。心はもんもんとしながらも「助けてください」という一言が言えなくて、一人で頑張っているうちに体がだんだん悲鳴をあげてくる。

私はやることはきちんとやるのだから、あなたたちもきちんとやりなさいよ、というタイプの人は病気になりやすいのです。辛いとき、どこへ逃げ込むかと言ったら病気しかないからです。ですから病院へ行って病名を付けてもらいたがるのです。しかし、いくら検査をしても見つかりません。こんな状態が続きますと、いつか体の病気となって現れてきます。

患者さんが心を許してくださると、外来の診察場でその人の苦しさを包み隠さず話してくださることもあります。これまで誰も聞いてくれなかった。自分も頑張ってきたという人が緊張感がとれ、兜を脱がれるともう涙、涙です。

帰られる時、診察の介助をしてくれている看護師さんとか診療助手の方がどういう姿で帰られたかを教えてくれます。検査もしていないし、薬も出していません。それでも、その方はずいぶん明るくなり元気になって帰られるのです。

こういうふうに、人間を単なる生物として扱い、検査をし、病気を見つけ、治療すればいいというものではないのです。家庭、社会の問題点をきちんと受け止めて、心のケアをしていくことよって初めて、自分で歩いて行こうという元気が生まれてくるのです。薬をもらって飲み元気になればいいです。でも、そんな病気はむしろ少ない。心の問題や家庭の問題、社会の問題が、病気になって現れて来ている場合、心のケアなしに精神安定剤をいくら飲んだって眠たくなるだけです。

「憩の家」の総合診療と医師の研修制度

現在、生物科学としての医療だけでなく、心理学や社会学を含めて行う全人的医療が求められていますが、「憩の家」では戦前の昭和10年からこれを目指しています。ですから、天理よろづ相談所という長い名前が付いているんです。よろず相談に応じるために、身上部・事情部・世話部の三つの部から成り立っています。身上部が病院です。事情部は宗教的な面から心の救済をはかっています。世話部は社会的なあらゆる問題に対応しています。経済的に困っておられる方の支払を一部免除したり、結婚相談なども行なっています。このように、「憩の家」は戦前から文字通りよろず相談に応じているのです。

先ほど言いましたように、今、日本では生物科学としての医学では行き詰まっています。天理病院だけでなしに、日本全国の病院で全人医療の必要性が叫ばれています。専門診療というのは、病気の医学です。病気を細かく細かく分けていって、きちんと診断して治療しようというのが専門診療です。「憩の家」では専門科が23もありまして、専門診療のレベルではどこにも負けないのですが、それと同時に、総合診療というのを行なっています。実は、1976年に日本で初めて天理病院が患者さんを丸ごと診る総合診療を始めたのです。

天理病院から始まった総合診療の輪はどんどん広がりをみせています。総合診療についていろいろ研究する総合診療医学会というのがありますが、会員が500人以上いる大きな学会になっています。日本における総合診療の歴史には、我が国において一番最初に総合診療をはじめたのは天理よろづ相談所病院であると書かれています。このことを天理病院として非常に誇りにしています。

天理病院はそれと同時に、医学部を卒業した若いドクターに総合診療の教育をはじめました。20数年前は、研修医が耳鼻科になるのだから耳鼻科のことだけ勉強する、眼科の医者になるのだから眼科のことだけ勉強するというのが当たり前だったのです。しかしこれでは、木を見て山を見ないということになってしまうという病院の考え方で総合診療の教育をはじめたのです。患者さん全体を診ることができるようになってから、耳鼻科とか眼科という専門を持つようにするようにする研修制度を始めました。「憩の家」ではレジデント制度と言っています。

レジデンシー residency には住居という意味があります。レジデント residentというのはアメリカの輸入語なのですが、病院に住み込んで勉強する研修医のことです。病院の同じ建物内に住んでいて、何かあったらいつでも飛んでいき患者さんを診療するのです。天理病院ではその通りに実行してきたのです。

レジデント制度はいわゆる医学の教育だけでないのです。どれだけ頭がよくても態度が悪かったらだめです。医者としての望ましい態度の教育を重視します。「習いごとするのには拭き掃除から」という言葉があります。それには内弟子にならなければなりません。内弟子になってお手伝いさん代わりに使われても、すぐには何も教えてくれません。何も教えてくれないのだったら辞めると言うと、どうぞと言われる。本当にやる気があるのかどうか試されているのです。芸を習う前に、師匠の毎日の生活、行動、考え方を見るには、住み込みでなかったらわかりません。昼間の姿だけではわからないのです。芸事を習うのと、医師の研修は同じではありませんが、実のある研修は生活からという考え方で、天理病院では院内にレジデント宿舎がありました。

レジデント制度は全国的に高く評価されまして、私たちがしてきた研修方式を総合診療方式として国が認めるまでになりました。もともとはストレート方式とかローテート方式という二つしかなかったのですが、総合診療方式は三つ目の研修方式として正式に認められたのです。この方式を他の病院も真似しなさいということで、三つの方式の中で研修補助金が一番多いのです。総合診療方式をとる病院には一番たくさんあげましょうということになりました。

さらに、平成16年4月から、これまで義務ではなかった医師の臨床研修が二年間義務化されますが、研修方式は総合診療方式によって実施されることになっています。将来、眼科医になるのだから二年間、眼科の勉強をしますでは開業できる免許がもらえません。内科も外科も小児科も婦人科も救急もいろんなことを経験する総合診療方式の研修をして初めて、次の専門の勉強に移れるのです。そういうことを決める医療法の改正案が国会を通過し、実施されることになっています。こうした面でも、天理病院でずっとやってきたことが花を咲かそうとしています。

病気にかかることは必ずしも悪くない

今、医療の世界が変わろうとしているのです。ただ医者の側だけでなく、国民の皆さんも変わってもらわないとだめなのです。子供がくしゃみをしたと言って、肺炎を心配して夜中の救急外来に駆けつけてこられる人があります。くしゃみが出て鼻水が出たら百パーセント風邪です。そういう判断すらできない若いお母さんが増えてきているのです。断片的な医学的知識があっても、風邪か風邪でないかすら医者に決めてもらわないとだめなのです。

病院に行けば、レントゲン撮りましょう、血液検査しましょうと長い間、待たされていたら本当に病気になってしまいます。病院で待っている間にいろいろな菌をもらいかねません。病院でもらった菌は抵抗力がついていますから、薬も効きにくいのです。ですから国民の皆さんは、病気を毛嫌いするのではなく、病気があるから健康でいられるということをもっと認識していただきたいんです。

例えば花粉症で苦しんでる人も少なくないと思いますが、昔は花粉症など見かけませんでした。私は、杉の木がたくさんある杉原谷村で生まれました。けれども花粉症で苦しむ人など記憶にありません。逆に多かったのは鼻たれ小僧です。青洟(あおばな)を出している子供がいくらでもいました。今のようにティッシュなどという気のきいた物はありませんでした。新聞紙は貴重な包装紙で、鼻紙なんかに使えませんでした。どうするかというと袖で拭くのです。もう子どもたちの袖は鼻でテカテカでした。鼻タレ小僧の青洟というのは蓄膿(副鼻腔炎)と言って、鼻の奥に空気の入っている洞窟みたいなところに、バイ菌がくっついているわけです。そこから膿が出てくるのです。

実は、バイ菌を食べたり吸ったりする子どものほうがアレルギーは少ないのです。今では、部屋に埃も上がらない、バイ菌も出ないくらいにきれいにしている家が多いです。ところが家族の多い子どものほうがアトピーは少ない。家族が多いと、一々かまっていられません。それから保育所へ早くから行って、バイキンをもらう子供さんのほうがアトピーは少ないのです。アレルギーと免疫というのは物事の裏表なのです。バイ菌が入ってきてそれに対して戦う仕組みが我々の体には備わっており、バイキンが身体の中に入ってくると免疫といって同じバイ菌に対して抵抗力ができてくるのです。

アレルギーというのは、自分の体と違うものが入ってきたときに、それを追い出そうとする反応が過剰に起こることを言います。悪いものを外に出すこと自体はむしろいいことです。病気に二度とならないという、免疫につながっていくことですから。

花粉は何も悪いことはしていないのです。その花粉を目の敵にして早く出そうとする。肺の奥へ入らないように入らないようにするために過剰に反応するのが花粉症です。免疫とアレルギーというのは、抗原・抗体反応といって、からくりからいったら同じなのです。それがバランス良く、ほどほどに働いてくれたら一番いいのです。したがって、蓄膿と花粉症の逆相関は、免疫の仕組みの発達という意味で関係があるのです。

この人は嫌い、この人は好き。この人とは付き合うけど、あの人とは絶対に付き合わないと言う人が最近、多いのですが、これがいじめにもつながっているのでないかと私は思います。自分の体も同じことが言えるわけで、ほどほどにバイ菌を食べたらいいんです。そういうことから、病気があったら悪いというのじゃなくて、病気にかかることは必ずしも悪いことではなく、病気になることで抵抗力ができていくと考えるといいと思います

しかし、本人の抵抗力を超えるバイ菌が入ってきたら、これは医者にかからないといけません。高い熱が出たとか肺炎になったとかいう時は、それなりの治療が必要ですが、くしゃみや鼻水ぐらいで病院に来ることは無意味なんです。それだけではなく、こんな風に育てられた子どもは可哀相に、ひ弱で、長生きできないのではないかと私は考えています。

人間を人間たらしめているのは魂の存在

人間の特性は、体・心・社会が互いに重なる三つ輪で考えると分かりやすいと思います。この3つ輪の重なる真ん中に、魂を私は置きたいのです。人間を人間たらしめているのは魂の存在であるといってもよいと思います。魂を辞書で引きますと、死ぬと抜け出す生命の原動力とか、精神・気力という意味で使われています。天理教のお教えにある魂は違った意味です。人間が死んでも魂は生きどおしであり、生まれかわるとき新しい体に魂をのせてもらってこの世に還ってくる。ですから人間は亡くなっても完全に消えてしまうわけではなく、「死は出直し」という教えです。

私の言う魂はこれらの意味とは違って、死後も消えることのないその人の足跡です。信仰していようがしていまいが、その人がどんな人だったかということは死んでも消えない。どういう業績を残されたか、どんな人とかかわってこられたかは、その人が亡くなられても、書いたものや人を通じて残る。自分の家族はもちろんです。学校の先生であれば、教え子はみんな影響を受けているでしょう。芸術家や職人であれば作品として残り、その技術はお弟子さんに引き継がれていきます。

ですから死んだら終わりではないのです。特別の人だけのたましいが生き続けるのではない。魂の大きい小さいはあっても、だんだん薄れていくかもしれないけれども、誰でもその人の魂は生きつづける。亡くなられて何年間は、年祭とか法事をして、その人の生きていたときのことを、みんなで思い出話をするでしょう。あのとき、たましいがこの世に還ってきているともいえます。こんなことを考えても、亡くなればすべて無に帰するのではないことが分かります。

人は、一人ひとり違う人格というものを持っています。この人格的存在は死んでも消えない。その意味で魂と置き換えてもよいと思います。魂の存在を信じない人は、この人格的存在の永遠性を忘れています。

現代人は、息をしている間だけが自分の人生であって、死んだら終わりと思っています。だから先のことを考えず、今がよければよい。何をしようが、私の勝手でしょうという生き方になります。そのツケが重い病気になったり、死ぬときに、魂の苦しみとしてたっぷりと味わうことになります。死んだら終わりだと思っているから、死ぬのが恐くてたまりません。何とかして生き延びようとしても、人間は生まれたら百パーセント死ぬのです。だから、誰でもいつか死を迎えることを受け入れ、どのように死を迎えるか考えなければならないのに、それができないのです。

例えばがんになったときの苦しみは、がんそのものの苦しみではありません。なぜ、自分はがんになったのか。他の人がなってもいいではないか。がんというのは死に病いだ。後いくら生きられるのだろうか、どういう形で息が切れるのだろうかなどという精神の苦しみなのです。それまでは、先のことを考えずに生きるのだと言っていたはずなのに、そうはいかないのです。死んだ後自分はどうなるのだろうか、あの世はあるのかというようなことで悩むのです。

こうした悩みに、現代医学は全く答えられません。ですから人格的存在としての魂は死んでも生き続けることをしっかりと心に納めたとき、死をそれほど恐ろしいこととせずに受け止めることもできるのです。

誰だって死は恐いです。恐くない人なんていません。しかし、死にたくない、死にたくないともがき苦しんで死ぬと、後に残された人はどのように受け止めるでしょうか。「あれでは可哀相すぎる」、あの人のことに触れない。できるだけ思い出さないでおこうということになります。一方、いい形で出直しされた方は、あの人はいい死に方だったなと、生前のことも事あるごとに思い出してくれます。そうすれば、魂はこの世にまた還ってこられることになる理屈ではないかと私は考えるのです。

魂というのはお年寄りだけの問題ではありません。魂の不滅のことを分かりやすく書いた『葉っぱのフレディ』(童話屋)という子ども向けの絵本が、ベストセラーになっています。春になったらもみじが青い葉をつけ、夏になったら青々と繁り、秋になったら赤く紅葉し、冬になる前に散っていく、もみじの葉っぱの一生を絵本にしています。その葉っぱの中の一つが、「散るのは嫌だ。恐い」というのです。すると、隣の葉っぱが「恐くないのだよ。散っていくのだけど、春になったらまた芽を出すのだよ」と教えます。こうして、魂というか、命の不滅なことを子どもに教えようとしているのです。これ外国の絵本ですが、日本でも非常に読まれています。

こういう魂や死の話を、うさん臭いものだというふうに考えないでください。皆さん自身が自分のこととして受けとめ、考えていくということが、これから施設で子供さんとかお年寄りと接していくうえでとても大切だと思います。魂を抜きにして、お道らしいお世話は考えられないと私は思います。一般論の魂ではなく、自分の魂を、また、お世話どりさせて頂く側の魂を、真っ正面から受け止めて、及ばずながら全力投球する。不十分な点や間違いもあるかもしれないが、誠の心をもって接すれば、必ず受け入れられる。その時は結果が出なくても、後から結果はついてくると私は信じています。

これをもちまして本日のお話を終わらせていただきます。ご静聴いただきありがとうございました。

メモ

本稿は、2002 ( 平成 14 ) 年 8 月 24 日、元天理よろづ相談所病院副院長今中孝信氏が天理教社会福祉施設連盟職員研修会においてなされた講演の記録を氏自身が要約されたものです。

木原 記す

2003年7月

最終更新日 : 2011-01-19