樂しい日記 2000年6月
懐具合が苦しいのに、かみさんに内緒で CD を買ってしまった。
Neil Young "Silver And Gold"。「そして僕は年老いていく」と歌った彼を好きだった人にお薦めする。
6 月 1 日 (木)
遅いと言われて黙っている訳にはいかない。
何言ってやんでぇ。ばかやろぉ。きちんと精度を出すには、やることやらなきゃ、駄目なんでぃ。そうそう馬鹿っ速に出来るか。手抜きのプログラムといっしょにすんな。
とか呟きながら、プロファイラを持ち出したりする。いや、そんな事してもしなくても、クリティカルな個所はあそこ【何処】に決まっている。先刻承知だ。少々うろたえてますか。
ちぃ、見てやがれ。
*
悠助、本格的に水疱瘡の発疹が出てきた。啓作はまだのようだが、多分、時間の問題だろう。おそらく、この週末と来週一杯は、、、考えるだけでどっと疲れる。
6 月 2 日 (金)
プログラムのクリティカルな個所を見直して作り直す。
メイン・ループの奥の方で繰り返されている処理を手前に出してきて、あらかじめ計算を済ませておき、ループの中では結果を参照するだけで良いようにする。最適化の常道ですな。「共通部分式の除去」って言ったっけ、単純な変数に結果が格納できるようなものなら、コンパイラが良きに計らってくれる。だから、手作業でやってもあまり意味がない。しかし、参照すべき計算結果が配列になるようなものは、プログラマが自分で引きずり出してやるしかないようだ。
結局、そういうものが三つも出てきた。んが。三つも隠していたとは恥かしい。最初からきちんと作るべきだったと反省する。二つ目の奴は結果が二次元配列になる、ちょっとした大物だったので効果を期待したのだが、びっくりする程には速くならなかった。それよりも、三つ目を抽出分離する作業をしているときに、それを利用すればメイン・ループの末端でループの回数を無理なく減らせる事に気が付いた。そして、これが効いた。実行に要する時間は、処理するデータによって異なるが、速いときは従来の 30%、最悪でも 80% 程度の時間で済むようになった。通常は 50% ぐらいかな。
いやぁ、目に見えて速くなった。よしよし。しかし、嬉しいような恥かしいような、、、。やっぱり、ちょっと遅かったようですね。どうも済みません。
6 月 3 日 (土)
のどかな休日。
悠助は思ったより早く快方に向かっているようだ。大して熱も出なかったようだし、まずは喜ばしい。しかし、啓作がまだ発症しない。そのかわりに、何か虫に噛まれて脚(ふくらはぎ)を大きく腫らしたので、病院に連れて行った。
6 月 4 日 (日)
のどかな日曜日、だった気がする。何したっけ。
啓作を病院に連れて行った。傷口に赤チン【違】を塗ってバンソウコウを貼り代えて貰っただけ。
6 月 5 日 (月)
営業会議。今期もあと二ヶ月、数字を上げろ、とか檄を飛ばされるのだが、売上が伸びると期待出来る理由は見当たらない。蒔かぬ種は生えぬ、ということ。
*
かみさんに念書を取られた【謎】。いや、純子さんと手を切るとか、そういう類の話ではないので、安心してください。
6 月 6 日 (火)
ご近所をあっちへ行ったり、こっちへ行ったり。
○○製織、Pentium III 800 MHz は十分に速いと思う。と言うか、それ以上はあまり望めないと思う。むしろ、速度のネックは、プリンタとそのインタフェイスだと思うのだが。
○○繊維、ちょっと期待して行ったのだが、がっくりである。早期の導入は見込めないようだ。やはり、あれ【何】も欲しいし、これ【何】も欲しいし、それ【何】も必要だ、と言うことらしい。うーむ、弾が無いぞ。そう簡単には作れないしなぁ。
○○○、頭が痛い。どうにかならんのか、あのコピー機。ほとほと困り果てる。
*
岩座神の公会堂でピオネーロの会合。
6 月 7 日 (水)
はちべえと一緒に出張。
5:30 起床。6:00 出発。10:00 浜松着。○○株式会社へ。本当は明後日、東京からの帰りに寄るつもりだったのだが、昨日、O嬢から電話があって、「あぁーん、水曜日に来てくださると思ってたんですけど、駄目ですか」とか言われたので、予定を変更したのである。ご褒美【謎】にうなぎをご馳走してもらったのだが、残念ながら、新幹線の時間を気にしながら、犬のように、がさごそと掻き込まなければならなかった。ちぃ。12:02 東京行きの新幹線に乗る。
15:00 千葉着。○○スタジオへ。本当は 14:00 の予定だったが、浜松に寄ったために遅くなった。何とか成約に漕ぎ着けられそうだ。値切られると辛いのだが、まぁ、仕方がないか。美味しいコーヒーをご馳走になったことでもあるし。
日本橋近辺は、相手の都合が付かなかったり、連絡が付かなかったりしたので、素通り。新宿御苑前に投宿。
6 月 8 日 (木)
原宿は○○○○へ、メンテナンスに行く。ソフトウェアのアップデート。
渋谷は○○商事へ、メンテナンスに行く。実質は、まぁ、おしゃべり。
両国は○ャ○○ーへ、メンテナンスに行く。うん、まぁ、ご機嫌伺い。
日本橋は○○繊維へ、メンテナンスに行く。ソフトウェアのアップデートと、環境設定。
同じく日本橋、○○織物へ行く。うーむ、名目も立たない、おしゃべりとしか書きようがない。
何やってんだか。一日良く歩いたことだけは確かだ。
6 月 9 日 (金)
新宿は○○へ、メンテナンスに行く。実は、三年前にシステムの導入時に行ったきりだった。先日、面会のアポイントを取るために電話したところ、担当者がごっそり入れ替わっていた。便りが無いのは無事の知らせであって、システムが順調に稼動していたんだから、まぁ、結構なことである。大丈夫。ノープロブレム。
本当は、如何にもほったらかしと言うことがバレバレだったので、ちょっと敷居が高かったのである。が、有難い事に、システムは本当に順調に稼動していた。結構、気に入って使ってもらっているようだ。
新しいシステムを見せたら、これまた、大いに気に入ってもらえた。有望かもしれない。
帰途、浜松へ寄って、○○○でソフトウェアのメンテナンス。
*
悠助はほぼ快復。啓作が発症。
6 月 10 日 (土)
土曜出勤。本来は鹿ちゃん【誰】が当番。田んぼの仕事をしたいので交替してほしい、という申し出を受入れた。こっちは、五月の連休に田んぼが済んでいるので、ノープロブレムである。地方在住の IT エンジニアは兼業農家であったりする。自治体の消防団員だったりすることも多い。いやぁ、のどかなもんだ。
夜、悠助を連れて岩座神に行く。親父が天理教の布教所をやっていて、毎月10日の夜に月例祭をやっている。
悠助は一人になると非常におとなしくなる。かみさんの要望に応えて、今夜は岩座神でお泊りである。
6 月 11 日 (日)
かみさんに書かされた念書の約束期限が迫ってきた。私のホームページを作れ、と言う。どんなん作るんや、と訊くと、ええのん作ってほしい、と言う。いや、せやから、どんなんがええのや、と重ねて訊くと、せやから、ええやつやんか、と言う。いやいや、せやからー、どういう事をホームページでみんなに知らせたいか、っちゅうのんがあるでしょうが、それによって何がええか悪いかもちごてくるやんか、とか言って押し戻そうとするのだが、わからん、あんた考えて、と言っておしまいである。
いや、要するに、かみさんとしては自分の仕事の宣伝をインターネットでやりたいのだ。それは解っている。しかし、見栄えの良いホームページを作るのは、そんなに簡単なことではない。それに、どんなに綺麗なホームページを作ったところで、それがどれだけの宣伝効果を発揮するかは大いに疑問だ。と言うのは、私は知っているのである、彼女の潜在的な顧客たちである繊維業界の人たちは、まだ、それほどインターネットとかホームページとかを身近に体験していないのである。
しかし、どうするか。
6 月 12 日 (月)
かみさんのページの作成に着手した。ホームページ・ビルダー 2001 に付いてくるテンプレートと素材集を利用して、骨格だけはなんとか出来そうだ。トップページ、自己紹介のページ、作品紹介のページ、リンクのページという構成。素材の画像にちょっと手を入れたり、オリジナルに差し替えたり、テンプレートには付いていないスタイル・シートを付加したり。肝腎の中身の作成までなかなか進めない。
6 月 13 日 (火)
親父が倒れた。
午後4時半頃、岩座神のたかひろさんから会社に電話が掛かってきて、親父が倒れて救急車で中町赤十字病院に運ばれた、と知らされた。かみさんに電話して、とりあえず病院の方へ行ってもらう。家からなら、病院まで5分だ。早退する準備をしていると、加美町の診療所で看護婦をしている従妹からも電話がかかってきた。かなり具合が悪いので直ぐに病院へ行け、と言う。そうこうするうちに、かみさんからも連絡が入り、直ぐに来い、と言う。
車を走らせながら、親父が死ぬんだと思うと涙が出てきた。
病院に着いたとき、誰がいたのだろう。母がいた。すすむさんとしげるさんがいた。教会の会長がいた。かみさんがいた。他に誰かいただろうか、はっきりと思い出せない。親父は処置室の中で手当てを受けていて、まだ面会できなかった。
子供たちの夕食の世話のために、かみさんは一旦家に帰った。
その後のことは、順を追って思い出すことが出来ない。いろんな人が見舞いに来てくれた。誰がいつ来てくれたのか、いつ帰ったのか、どんな話をしたのか、、、。母は平静な様子で、説明を求められるたびに、親父が病院に運ばれるに至った経過を繰り返して話した。そして、親父の状態と治療の経過や方針について、辛抱強く、同じ説明を繰り返してくれたと言う点では、医師の岸先生も同じかもしれない。
母の話によると、親父は、午前中は何事も無く、普通に畑仕事をしたりして、元気にしていたようだ。孝博さんも、軽トラックに乗って肥料を買いに行く親父を見た、と言っている。昼食後、親父は「しんどい」と言って、体を休めるために横になったようだ。母は医者に診て貰うことを勧めたが、親父は寝ていれば直ると言って、聞き入れなかった。母は町の婦人科検診を受けるために、親父を家に残して、出掛けて行った。3時半ごろ、母が帰宅したとき、親父はまだ横になって、ぐずぐずしていた。「痰がからんで息苦しい」と言ったのはこのときだったかどうか、ともかく、親父は母に「肩を叩いてくれ」と頼んだ。母は肩を叩きながら、再度、医者にかかることを勧めたのだろう。もちろん、親父は、大丈夫だと言って聞き入れなかったに違いない。それでも、症状は少しづつ悪くなる一方だった。親父は、母に、「おさづけを取り次いでくれ」と頼んだ。既にかなり息苦しく、青い顔をしていたのだろう。母はおさづけを取り次いだ。そして、親父を説得し、診療所に電話して往診を依頼した。救急車を呼びたかったのだが、それは親父が受入れなかった。診療所の道上先生はすぐに酸素ボンベを持って来てくれた。そして親父の症状を見て、即座に救急車の手配をしてくれた。そして、道上先生自ら救急車に同乗し、酸素吸入をしながら、一番近くの中町赤十字病院へと親父を搬送してくれた。
赤十字病院に着いた時、親父は血の気の失せた顔で、喘ぐような呼吸をし、口に血の混じった泡を吹きながらも、まだ意識があったそうだ。しかし、手当てを受けるために処置室に入るころには、意識を失っている。岸先生は、すぐに人工呼吸器を使って応急処置をした。もう少し遅れていれば、親父は死んでいただろうとの事だ。中町赤十字病院には集中治療室は無い。しかし、設備の整った大きな病院まで運んでいたら、親父は救急車の中で亡くなっていただろう。
一通りの手当てが済んだ後、処置室のベッドに横たわる親父を最初に見たのは何時ごろだったろう。誰が一緒に居てくれたのだろう。親父は人工呼吸器のホースを口から捻じ込まれ、手足に何本もの点滴のチューブを付けていた。部屋は暑かった。人工呼吸器の発する熱気のせいだと言われた。心拍のリズムを刻むオシロスコープは、ときたま少し乱れながらも、意外に力強い波形を描いていた。親父に意識は無かった。
処置室はナース・ステーションに直通するドアがある点を除けば、一般の病室と何ら変ることのない部屋だ。岸先生は、特に処置をする必要がある場合を除いて、処置室に自由に立ち入ることを許してくれた。親族以外は入らないでくれ、とも言わなかった。教会の会長がおさづけを取り次いでも、何も言わなかった。親父の状態については、当面の危機は脱したが、今夜が一つの山だろう、と言った。会わせておきたい人があれば呼び寄せるように、と。
7時過ぎだろうか、かみさんと牧野の義父が啓作と悠助を連れて、処置室に入ってきた。義父から啓作を受け取って抱き上げると、胸から肩にかけて彼の体温が伝わってきて、とたんに涙がぼろぼろ出てきた。かみさんが親父の手を握って、「おじいちゃん」と呼びかけた。自分がまだ親父の手を握っていなかったことに気付いた。魂の抜けた物体のように思えて怖がっていたのだろうか。
親父は自力呼吸を止めるために筋弛緩剤を1時間半おきに投与された。中途半端な自力呼吸は人工呼吸器のリズムと合わずにかえって患者を苦しめるのだそうだ。自力呼吸を主体にして人工呼吸器を補助に用いることも出来るそうだが、現在の親父の場合、それに見合うだけの力強い自力呼吸は期待出来ないので、筋弛緩剤を与えて自力呼吸を止めてしまい、人工呼吸器だけの力で呼吸をするように仕向けるのである。
筋弛緩剤は投与すると同時に顕著な効き目を顕わし、徐々に効果が薄れていく。効果の持続時間には個人差があるようで、様子を見ながら投与の間隔を決めていくようだ。
最初、付き添っている者にはこのことがよく理解できなかった。手を握っても、呼びかけても、何も反応せずに眠っているように見える親父が、手を握り返したり、力強い呼吸をしたりするようになってくる。手を握り返す力が、徐々にではあるが、強くなってくる。しかし、喜んでいると、そのうちに呼吸が息苦しそうなものに変ってきて、ときたま眉根に苦痛の表情が浮かんだりしてくる。そして手が苦しみを訴えるように大きく動く。そして筋弛緩剤を与えられると、一転して、非常に穏やかな状態になる。見ようによっては、このまま死んでいくかのような、深い眠りに落ちたような穏やかさだ。
長い間そばに付き添って手を握っていることは辛くて出来なかった。後ろめたさを感じながらも、離れた場所に行って一休みしたくなった。煙草を吸いながら、親父と一緒によろこんだ日のことを思い出した。例えば十年程前の旅行。親父が企画し、僕が金を出して、親しい人たち二十人ぐらいを六甲山ホテルに招待した。みんなが楽しんでくれた。「あの時はみんなが歓んでくれて良かったなぁ」と、もう一度、親父と話したい。
京都の妹夫婦が二人の子供を連れてやって来た。9時過ぎだったろうか。その頃までには、いろんな人が見舞いに来てくれていた。国延の叔父夫婦、川西の伯父夫婦、西田の伯父夫婦、長井の叔母、もとむさん夫婦、りょうのすけさんとさんの父子、他にもいたかも知れない。妹夫婦の子供たちは牧野に泊めることにした。夜遅く、親父の電気工事店で働いていた人たちが来てくれた。店は20年も前に倒産したのだが、この三人は今も盆や暮れには贈り物を持って親父を訪ねてくれている。真夜中の1時過ぎ、準夜勤務を終えた義姉が来てくれた。
6 月 14 日 (水)
一睡もしなかった夜が明けた。親父は最初の山を乗り越えたようだ。
会社に電話を入れて、今週中は出社できない旨を伝える。金曜日に予定していた出張についても、はちべえに代わってもらうようにした。
今日も、いろんな人が見舞いに来てくれた。母と妹が、忘れぬうちにと、メモを付けていた。
医者である橿原の叔父が、親父の容態や病因について、岸先生と話をしてくれた。原因については、昨日の段階では、心筋梗塞による急性心不全だろうと考えていたが、検査の結果などからは、むしろ肺梗塞だろうということだ。容態は、当面の危機を脱して、心臓も肺臓も、昨日の状態に比べると非常に良くなっている。それよりも、目下の関心事は、尿の量が少ないということであり、腎不全による容態の悪化の方が心配だとの事である。なお、倒れたときに酸素の血中濃度が異常に低い状態が続いたわけで、それによる脳の損傷も心配されるのだが、それが問題になるとしたら、もっと容態が回復してからのことだ。
容態の急変は無いように思われるので、母はあらためて付き添いの準備をするために一旦家に帰った。妹の夫君には子供たちを連れて京都へ帰ってもらうことにした。あちらのお母さんも癌の末期で重篤な状態なのである。妹にも一緒に帰ることを勧めたのだが、妹はもう一日だけ泊まることにした。
午後、母と交替して、一旦帰宅。巨大添付ファイルつきメールで、はちべえに業務連絡。入浴して仮眠。夕食を採る。申し訳ないが、風呂に入って少し寝たら、気分もさっぱりした。
夜、病院に行き、母を家に帰して、妹と二人で親父に付き添うことにする。国延の叔父夫婦が付き添いを申し出てくれたが、礼を言って帰ってもらった。親父は処置室から一般の病室へと移されていた。
ノート・パソコンを病室に持ち込んで、いくらか仕事をし、この日記を少し書いた。どちらもあまり進まなかった。
親父は小康状態を保っている。
6 月 15 日 (木)
10時ごろ、母が親父の付き添いを交替しに来てくれる。
昼過ぎ、妹を滝野社のインターチェンジまで送り、一旦、帰宅する。仮眠と若干の業務連絡。
3時過ぎ、電話で病院へ来いと呼び出された。人工透析をすることについての親族の同意がほしいとのことである。やはり、心配したとおり、親父の容態が、腎不全の影響が無視できない程度になってきたそうだ。放置すると尿毒によって心臓が止まったりするらしい。ただ、透析をしても、容態の悪化を阻止するのがせいぜいであり、本当の回復に向かう可能性は低いとのこと。岸先生は同意を得られるものとして準備を進めていた。意識があれば親父は固辞しただろうと思いながら、人工透析をすることに同意した。
夕方から、人工透析が始まった。通常なら3~4時間で済むところを24時間かけて、弱った体の負担にならないように、ゆっくりと行なうのだそうだ。
病院が、付き添いや見舞いの人の控え室にと、処置室を空けてくれた。病室は人工呼吸器のために、狭くて暑くなっているので、非常に助かる。しかし、ソファーも何もなかったので、長井の叔父がござを持ってきてくれた。
病院には、東京の叔父夫婦が来てくれており、今晩の付き添いを買って出てくれていた。ご好意に甘える。
夜、13日と14日の日記を書く。
6 月 16 日 (金)
父が死んだ。
*
朝、病院に行く。人工透析機は既に停められていた。24時間かけて透析をする筈だったが、10時間で終ったそうだ。岸先生の説明によると、今回の人工透析は血液中の尿毒を除去すると同時に余分な水分を排出するのが目的だったが、体の中の水分が血管から体組織へと大量に染み出しているため、予定していた量の水分を排出することが出来なかったそうだ。これ以上透析を続けて水分を排出しようとすると、血液中の水分が減りすぎて心臓に悪影響が出る、と。
岸先生は昨夜付きっきりで人工透析の進捗を見守ってくださったのだと東京の叔母から聞く。
親父の肩や首に出ていた大きなふくらみは取れていたが、手足はむくんだままだった。依然として熱は高いようだった。しかし、むくんだ手や足はひんやりと冷たかった。二の腕やふくらはぎまでは暖かい。おそらく、もう、手や足の先まで血液が回らなくなっていたのだろう。
今日も大勢の人が見舞いに来てくれた。
控え室(処置室)で眠った。東京の叔父夫婦は昼頃に帰って行ったそうだ。
*
何時頃だったろう、そのとき、病室には笹倉の叔母と従妹の敦子が一緒に居てくれた。もう一人誰かいてくれたようだが、思い出せない。岸先生が、二回目の人工透析をするので親族の同意が欲しい、ということで、親父の状態とこれから行なう治療の意味とを説明してくれた。今度は、水分の排出は行なわず、尿毒(老廃物)の除去だけを行なう、と。親父の容態に関しては、岸先生は非常にデリケートな述べ方しかなさらなかったが、もう見込みがないらしいことが理解できた。
あまり長く考えることは出来なかった。僕は二回目の人工透析を辞退し、親父が苦痛を感じないようにだけして下されば十分だと申し出た。岸先生は了解してくださった。親父におさづけを取り次いだ。
高田婦長さんは、病院のスタッフに遠慮することはない、すでに機械の準備も出来ているからもう一度人工透析をなさってはどうですか、と言ってくださった。従妹の敦子もそう言ってくれた。しかし、笹倉の叔母は、僕の決断を受入れてくれた。誰かが断を下さねばならない、そしてそれは僕のつとめなのだと。
人工透析機は病室から退けられた。林立していた点滴も数が減らされた。残ったのは人工呼吸器と、心肺モニターと、いくつかの点滴だけになった。
いつの間にか、橿原の叔父が来てくれていた。僕から話を聞いた叔父は、お礼をしに行って来ると言って、岸先生と話をしに行った。医者である叔父には親父の状態がすぐに理解できたようであるが、それでも、確認しなければ気が済まなかったのだろう。帰ってきた叔父は、あらゆる検査の数値が絶望的な状態を示していたことを教えてくれた。そしてこう言った。医者というものは本能的に命を助けようとするから、望みがある場合は、親族が辞退しても、可能な治療を続けようと説得するのだ、と。今回の人工透析については、まだ出来る事があるのにそれをしてやらなかった、という罪悪感を親族が抱いてはいけない、という事で提案されたのだ、と。
*
それでも、もう少し時間があると思っていた。
*
午後7時過ぎ、親父の心臓が鼓動を停止した。すぐに心臓マッサージが始められた。若い医師が額に汗をにじませ、息を切らしながら、懸命にマッサージを続けてくれた。モニターの心電図は、動きを止めてはいなかったが、正常な鼓動を示す波形ではなかった。回復の兆しは見えなかった。橿原の叔父が、僕に耳打ちして、適当なところで心臓マッサージをやめて貰うように言う方が良いと教えてくれた。見てのとおり、かなりの重労働だから、と。そうしようと思ったが、結局、出来なかった。岸先生が若い医師に目配せして、心臓マッサージをやめさせた。そして、尿毒、カリウムによって心臓が麻痺した、これから呼吸管理だけに移行しますと言った。
会長におさづけの取り次ぎを願った。会長は、七十余年にわたってよく使わせてもらった体を感謝してお返しします、とおさづけを取り次いでくれた。母が泣き崩れた。親父が倒れてから、母が声を出して泣くのを初めて見た。
心電図はゆっくりと平坦になっていった。ずいぶんと時間がかかったように思う。岸先生が人工呼吸器と心肺モニターを停止させ、親父の口からホースを取り除いてくれた。親父は安らかな笑顔になっていた。母や笹倉の叔母が、ここ二三年、こんな良い顔を見たことがない、と言った。やはり、最近は体が悪くて、辛かったのだろう、と。午後7時35分のことだった。
*
城陽の妹、岩座神の親戚筋に電話で連絡する。会長が葬儀の日程を決める。親父の体を岩座神に連れて帰る段取り。その間、親父は体を清めてもらい、着替えさせてもらっていた。急にばたばたとする。周囲が事を進めてくれるので、言われるままに動くだけ。
ワゴン車の座席を倒して布団を敷き、親父の体を岩座神に連れて帰る。家中の灯りが点されて、祭りの夜のようだ。離れの座敷に寝かせた。女の人たちが台所を中心に忙しく立ち働いている。男の人たちがそこここに車座になって、ビールや酒を飲みながら、何かを話しあっている。
10時ごろ、妹夫妻が子供たちをつれてやってきた。
みんなが帰っていったのは真夜中すぎだった。
6 月 17 日 (土)
葬儀準備。
世事に疎い僕は、あれをしろ、これをしろと周囲に言われるままに振舞うだけである。
このあたりでは、親戚縁者と地域住民が寄って集って葬儀を運営してくれる。
葬儀の名目上の主催者は喪主なのだが、実際に段取りを決めたり指図をしたりする、いわば葬儀委員長が別に居るのが普通だ。通常は、親類縁者の中で、そういう事に長けている(あるいは長けているべき)人が居て、葬儀を取り仕切ってくれる。今回は故人の生家の当主、故人の甥でもある天理教杉原谷分教会の会長がそれにあたる。任せて安心である。
葬儀委員長のまわりには親類縁者がいて、実際のさまざまの仕事をしてくれる。ここには、血縁者という意味での狭義の親類と、故人や喪主の公私の縁者、そして岩座神の中の株内が含まれる。
故人や喪主が「社長」とか何とかだと、縁者の比重が大きくなる。従業員が駆り出される訳だ。僕は一介の給与生活者だから、そういうのは無い。親父はかつて電気工事店の経営者であった。その会社は15年前に倒産したのだが、有難いことに、元の従業員の人たちが手伝いに来てくれた。橋間さん、小林さん、溝垣さん、笹倉さん。みんな電気工事屋さんだから、こういうときには何かと心強い。
天理教杉原谷分教会の信者仲間は、親父と僕の共通の縁者ということになるだろう。祭壇の準備やら、ドライ・アイスの手配やら、通常は葬儀屋にやってもらうような事をすべてやってもらった。
株内(かぶうち)というのは、古くからの「本家 - 新宅」の関係に基づく、村の中の血縁集団だ。普段は特に意識されないが、冠婚葬祭のときに「身内」として扱われる。
これらの「身内」が故人の死の直後から喪家に集まって、通夜から葬儀まで、葬祭の一連の行事を進めていく。
一方、株内を除いた村のメンバーは、主として葬儀当日のみ、区長および臨時に選出される「元締め」に指揮されて、葬祭の運営に関与する。主な仕事は、香典の受付けおよび会計、昼食の準備と提供、僧侶(今回は神官)の送迎および接待、交通整理などである。昼食は、弔問客、僧侶、喪主をはじめとする故人の親類縁者、村のメンバーなど、葬儀に参加する全ての人のために提供される。かつては喪家の近くから「精進屋(しょうじんや)」という家を選んで、そこの台所や庭先で煮炊きをし、そこの座敷で弔問客に昼食を振舞った。現在では、公会堂を使う。
今日はまだほんの身内だけでの準備である。段取りの確認をしたり、拭き掃除をしたり、草引きをしたり。長井の叔父が何も言わずに平気な顔で便所掃除を始めたのにはびっくりした。ま、負けた、という感じ。
親父(の体)はドライ・アイスを抱いて離れの座敷に安らかな表情で寝ている。
*
親父の本棚に「私の履歴書」と題したバインダー・ノートをみつけた。ルーズ・リーフ式の金銭出納帳に鉛筆書きで、項目に分けて見出しを付け、年譜やさまざまの事柄を記している。思い付くたびにあちこちを書き足していったような様子で、消しゴムでごしごしと消した跡も各所に残っている。
最後のページに「遺言」と題したものがあった。
死んでからまで人に気をもませないほうがよいと家内が云ったことがある。ほんとにそうだ。
早いか遅いか、気がシャンとして迎えるのか、痴呆で大勢に迷惑をかけても判らぬままで最後を迎えるのか、自分ではどうすることも出来ない。杉原の父母も、梅太郎父も、やすゑ母も、殆どそんなこともなくて出直したので、それにあやかり、何とか人並みに出直しをしたいものだ。
私の一生は仕合せだったと思う。いい親をもち、カミさん、子供、兄弟、先輩、後輩、友人にめぐまれ、有難いことだった。
(後略)
1997.9.26
6 月 18 日 (日)
昨日に続いて葬儀の準備。
朝から岩座神の区長さんも招いて、段取りの確認。株内の長老と区長さんの間で一悶着。
祭壇が組み立てられる。生花や供物が届けられる。家具を移動したり、襖を外したり、幕を張ったり、通夜に備えて屋外に照明を準備したり、草刈りをしたり、みんな忙しく賑やかである。
親父に会いに来てくれる人も少なくないので、ぼんやりとしている暇は無い。
午後3時半、親父を着替えさせて棺に入れる。普通なら白装束なのだろうが、黒の紋付と袴である。これは「おつとめぎ」と言って、天理教の教会の月例祭でおつとめをするときの正装だ。
午後6時から通夜。会社から専務および古株の三人が来てくれた。そして、○○織物の社長が来て下さったのだが、思いもかけないことで、びっくりした。
午後7時から遷霊式。午後8時から、岩座神の人々の弔問。
区長さんから岩座神の人たちに対して、明日の役割が発表される。
村の人たちも帰って行ったら、お疲れさん、という訳で、株内の人たちや身内のもので酒を飲みながら、しばし歓談。いや、実際のところ、ちょっとした宴会である。徐々に人が抜けていって、最後の方は、そこに居てくれるのが嬉しい人たちばかりが残って、心からくつろぐ事が出来た。よく笑った。楽しかった、と言うと、不謹慎というか薄情に聞こえるだろうか。
みんなが帰っていったのは12時を過ぎてからだったと思う。はっきり憶えていない。
6 月 19 日 (月)
葬儀。快晴に恵まれた。いや、少し暑すぎるぐらい。
11時半開式、1時出棺。
西脇市斎場で火葬。3時45分、骨上げ。
*
夜、宴会が果てた後、もとゆきさんとたかひろさんが、妹の子供たちのために、蛍を見に行こうと言い出した。まずはケーブル・テレビの文字放送で蛍情報を確認。かみさんが乗ってきた牧野の義父の車で出掛ける。もとゆきさん、たかひろさん、妹、ゆうこ(姪)、しん(甥)、かみさん、僕の七人。義弟は酔って寝ていたので放っておく。まず、的場へ。情報どおり、十数匹の蛍を確認。そして、月ヶ花橋へ。こちらでも思ったより多くの蛍を見た。涼しい風が心地よい。たかひろさんが一匹つかまえた。ゆうこもしんも大喜びであった。
6 月 20 日 (火)
後片付け。
午前中、義弟と一緒に行動。料理屋へ支払いおよび器の返却。杉原谷分教会、豊原分教会、宇仁大教会へお礼の挨拶。斎場へ施設使用料他の支払い。写真店、Aコープ、酒屋、豆腐屋へ支払い。
午後8時から日祭。
6 月 21 日 (水)
後片付け。休養。ようやく少し落ち着いてきた。
病院、斎場、葬儀にかかった費用の集計。弔辞、弔電、供物の記録。ビールの空き瓶の返却。残金の預入れ。
教会長から、病院の先生への謝礼をどうするのか、との問い合わせ。孝信叔父が気にしていたから、と。先生個人への謝礼でなく、病院への寄付にしたいと思っていたので、その旨を伝えたところ、それでよいとの同意を得る。
父の古道具屋の友人である平山さん、そして、神戸時代の古い友人である堀越さんに電話をかけて、父の死を伝える。もっと早くに知らせるべきであった。忘れていたのだ。
かみさんも一日、牧野の家の掃除。夕方、保育所に子供たちを迎えに行って、その足で岩座神へ来る。
午後8時から日祭。
9時ごろ、平山さんが来てくれた。
*
今日から出勤するつもりだったが、いくらか後片付けが残っていたので、休養も兼ねて、もう一日会社を休むことにしたのである。さすがに疲れた。
追々、16日以降の日記も書き足すつもりだ。書き留めておきたい事は山ほどあるが、全部を思い出せるかどうか。
6 月 22 日 (木)
一週間ぶりに出勤。
はちべえから留守中の営業の推移を聞く。浜松の○○へ納品が済んだ以外は、まぁ、たいして進展なし。と思っていたら、○○スタジオとの契約が成立した。まずはめでたい。あの【どの】カラー・コピー機、あそこ【どこ】でも、印字品質が問題になっているとのこと、うーむ、技術的には処置なしなんだが、さぁ、営業的にどうしましょうか。
休暇の届出。慶弔休暇は、喪主の場合、五日間取れるんだな、うちの会社の場合は。足らない部分は年休だ。
弔問・弔電を受けた地元の取引先へ、挨拶に行く。
一週間前、開発としては、何をやっていたんだろう。そうか、印刷プレビューか。はぁ。
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午後8時から日祭。
6 月 23 日 (金)
仕事はしたような、しなかったような。先々週の出張旅費の精算書を書いたり、倉庫の古い資料を整理したり、問い合わせのメールに返事を書いたり、漫然と雑誌を眺めたり。
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午後8時から日祭。
6 月 24 日 (土)
子供連れでかみさんと買い物に出る。礼服、子供のスリッパ、カーテン。
牧野のパル(犬)が死んだ。老衰。
16日の日記を書き足す。
午後8時から日祭。
6 月 25 日 (日)
のどかな日曜日。岩座神で一日ぶらぶら。16日以降の日記を書き足す。
総選挙だったのだ。
午後8時から日祭。
6 月 26 日 (月)
顧客名簿の作成。沖縄からの問い合わせへの対応。例のコピー機についての対応、とりあえず、他の選択肢を検討。
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午後8時から日祭。
義弟のお母さんが亡くなられた。
三宅島で噴火のおそれとのニュース。
16日以降の日記を書き足す。
6 月 27 日 (火)
印刷プレビュー。
例のコピー機について、いわつきさんと会談。
○○織物からエマージェンシー・コール。ディスプレイの故障だった。修理を手配。
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午後8時から十日祭。
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裏夜食日記も偽夜食日記も「全然タイトルにあわない内容になってるような気が」ずっと前からしてました。その点、りゅうさんは無し無し無し無し無し無し無しSUBWAYのサンドイッチ無し無し無し無し無しと几帳面に記録していて、かろうじて偽偽夜食日記のタイトルの面目を保っているようです。偉い。
実のところ、千載一遇の好機とばかりに書きつのる様子は、いくらか楽しげに見えるのではないかと想像しています。しかし、ちょっと頭の方も疲れてきました。やはりストレスが大きいみたいです。
6 月 28 日 (水)
義弟のお母さんの葬儀。
会社を休んで、朝から子供二人を連れてかみさんと城陽へ行く。はじめて行く場所でも少しも不安を感じない。カーナビの便利さをまざまざと実感。
お母さんは、いわゆる葬儀はしないでくれ、と遺言されたらしい。僧侶も読経も位牌も無し。香典も受けない。生臭い弔電披露も一切無し。近親者だけの告別式。
11時、雨の中を出棺。宇治の斎場へ。
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帰り道、大阪空港に立ち寄って、子供たちに飛行機を見せてやった。
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午後8時から日祭。
6 月 29 日 (木)
しかちゃん【誰】、はちべえ【誰】とともに大阪へ。
大阪から帰ってくると、ヘリコプターが2機、うちの会社の上空をしつこく旋回していた。何やってんだ、と訝っていたところ、夜のニュースでそのヘリコプターから撮影したと見られる映像が放送されていた。21歳の男が15歳の少年に灯油をかけてライターで火を点けたのだと言う。ヘリコプターは、ほんの100メートルほど離れたところにある事件現場の公園を撮影していたのだ。
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午後8時から日祭。
6 月 30 日 (金)
例のコピー機に関して、株式会社○で会談。専務も出てこられて、要するにこいつはアカンいうことやな、せやったら、次のことを考えような、という話になった。経営者が出てくると話が早くなる。
石川県の○○織物から問い合わせ。訪問のアポイントメントを取る。
引き続き、印刷プレビュー機能の作成。
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午後8時から日祭。おっと、今日は子供たち二人の満二歳の誕生日だ。
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独り占めするのは勿体無いように思うので、もらったメールを公開させてもらう。
気の利いた文句のひとつも言えませんが、魂がよき場所へ導かれんことを、ささやかながらお祈り致します。
残されるものはいつもさみしいですね。
ごたごたが済んだら、しばらく呆けて、頭も身体もゆっくり休めてください。
6/17 まれびと
まれびとさん、
お心遣い、ありがとうございます。
ようやく、キーボードに向かって、言葉を紡ぎ出す時間が取れるようになりました。体は疲れていますが、心は言葉を捜し求めて駆け巡っています。書き留めておきたいこと、書くことによってしっかりと掴まえておきたいことがあります。
恵みと慰めに満ちた最期であり告別でした。
感謝しています。
6/22 きはら
きはらさんへ
訃報を知ったとき、何曜日かの夜でしたが、ちょうど風呂に入っていたつれあいに知らせました。きはらさんのことは時折話を聞かせているので、「日記」にあった事柄をひとつづつ話してやると、彼女は湯舟のなかで涙を流し、ウンウンと頷いていました。私は私でその夜、二人で見る予定だった映画のビデオをとりやめて、死についてのささやかな雑文を「日々是ゴム消し」に記しました。
思い起こせば私自身、父親が突然の事故で死んでからしばらくの日々は、耐え難いと同時に、不思議な覚醒に満ちた貴重な時間であったような気がします。
死は、残されたものにとって、大きな(おそらく無限の)糧になり得るものだと、いまは思っています。あるいは、死者の残していった最後の恵みであると。
「われわれの見るものは花であり、それは過ぎ去っていく。根茎は残っているのである」というユングの言葉は、いまも私の座右の言葉です。死が消滅ではないその場所に、死者の記憶が常に私をつなぎ止めてくれているように思います。
亡くなられた故人とともに、きはらさんやご家族の上にもまた、大きな恵みが授けられることを祈っております。死のもたらす恵みは、おなじ死のもたらす悲しみより、きっと大きいはずですから。
くれぐれもお身体、ご自愛ください。
6/23 まれびと
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