謎解きではない
最初に、ある人の言葉を引用する。
教祖のお話はいつも、普通におそばにいる人に向けてされるわけです。
将来学者が言葉を分析すれば解釈してくれる、みたいな謎解きみたいな話はないと思います。
明治時代の大和、奈良の田舎にいた人がなるほどと、自分のものにできる、解釈できる人間創造の元創まりのお話。布教師は布教師なりに、医者は医者なりに、学者は学者なりにとらえることは自由だと思いますけど、それ以外のなにものではないでしょう。
泥鰌は精子で、みたいな俗っぽい話だけはようじん、ようじん。
天理教布教師H
これは、『天理教布教師Hの(ぐうたらな)日常』というサイトの掲示板に書かれたもので、「質問というのは、もとはじまりの話についてです。これは、たとえ話なんでしょうか。それとも、人類誕生の歴史を正確に記述してあるものなのでしょうか。どのようにお考えになっておられるのかお聞きしたいです。」という質問に対しての、管理人としての回答である。
質問した人は納得しなかったようだが、私はHさんの言葉に同感する。
芹沢光治良は、一生を締めくくるような最晩年の著書『大自然の夢』の中で、まるで天理教の教えを総括でもするようにして、何の解釈も加えずに、ぽんと投げ出すように、生(き)のままの「もとはじまりの話」を書いた。これをそのまま読めば良い、と。
絵本
何歳ぐらいであったか、はっきりとは憶えていない。おそらく父が買い与えてくれたのであろう絵本が、私にとって最初の「もとはじまりの話」であった。一匹だけ残った雌猿とか、水の中を泳ぎ回るちいさな人間たちとかの絵を断片的に記憶している。
そして、次に「もとはじまりの話」が私の意識に上ってくるのは、上述の芹沢の著書の中でそれを読んだときである。間がすっぽり抜け落ちているのだ。天理教の信者の家に生まれ(父は天理教の教会の三男坊であった)、幼い時から、空気を吸うようにして、天理教の教説に触れてきた。大学から落ちこぼれた時には、三ヶ月間の修養課に入って(放り込まれて)、正式に天理教を学んだ。しかし、芹沢の本で読むまで、「もとはじまりの話」を大切な物語として意識したことは無かったように思う。
そして、これが肝腎なことだと思うのだが、幼かった私が理解した「もとはじまりの話」と、現在の私が理解する「もとはじまりの話」との間には、特に差異は無いのである。
童謡「親神さま」
我が敬愛する友人、内藤元幸さんは、酒と会話が好きな人で、当然のように、歌も好きだ。一番好きな歌は、おそらく、この童謡「親神さま」であろう。教会の行事でカラオケをすると、しめくくりに、この歌を無伴奏で全員で合唱することを要求する。「わし、この歌をみんなで歌わんと、気が済まんのや」と言う。
遠い遠い その昔
親神さまは 人間を
つくりたもうた お父さま
つくりたもうた お母さま
*
みんなが 仲良く くらすなら
みんなが 楽しく くらすなら
親神さまも どんなにか
おてて たたいて およろこび
これは、幼少時から天理教に親しんでいる者なら、誰でも知っている歌だ。そして、元幸さんにとっては、この歌が天理教の教えの精髄なのである。
それに私も同感する。
天理教ってのは何と単純素朴な教えであろうか。馬鹿みたい。
それで良いのである。
物語
「もとはじまりの話」は、この「親神さま」の歌を理解するのと同じようにして理解すればよい物語だと思う。
「親神さま」の歌に持って回った解釈が不要なように、「もとはじまりの話」も、子供になったつもりで読んで、判るところだけを判れば、それで十分ではなかろうか。
「どじょう」ってのは精子のことだろうか、いや、染色体のことじゃないか、というような議論も面白い。「いざなぎのみこと」とか「いざなみのみこと」とか出てくるけど、記紀神話との関係はどうなってんだ、というようなことも気にはなる。また、聖書の創世神話と比べるとどうか、というのは興味深い話題だろう。私には類似点の方が目に付くが、こちらの方が男女の扱いが平等だ、というような相違点の方に興味を持つ人も多いようだ。
そういう読み方は悪いことじゃないと思う。むしろ、物語の作者【誰】は、そういうディテールの面白さによって読者を物語に引き付けることを予定しており、思う壺だとニタニタ笑っているかもしれない。何度も何度も読み返しているうちに、物語の骨子が読者の心に入り込むのだ。
ディテールに関しては、人によって解釈が異なるようになっても、かまわない。それは、心の奥底とは無縁だ。そんなものは、年老いて耄碌すれば、すっ飛んでしまう。福音書を書いたヨハネは長生きして、最後は、ニコニコ笑って「みんな、お互いに愛し合おうな」と言うだけの馬鹿みたいなじいさんになったと聞く。そういう心の奥底の、最後までその人から奪われない核心だけが重要だ。そういうものが、人の行動を最終的に決定し、幸不幸を左右する。それは、人の心の幼児(おさなご)の部分だと言ってもいい。
すぐれた物語は、人の心の幼児の部分に働きかけて、人を変えていく。
*
逆説的になるが、物語のディテールは重要だ。物語の言葉にはそれ自体の必然性があるから、理解できないところは理解できないままにして、テキストをそのまま伝えるのが良い。解釈によってテキストを改変してはならない。「九億九万九千九百九十九年」を単に「大昔」と理解することは問題ないが、それを「大昔」と書き換えてはいけない。
2001年2月
最終更新日 : 2011-01-19