それ(=この世界の理不尽さ:きはら註)こそが、私が神や仏を信じない理由の一つです。

いや、神や仏の存在を信じないわけではありません。実際、人智を超えた存在というのはあると思います。ただ、その存在は決して公平無私なものではなく、また善男善女の味方でもない、極めて気まぐれな存在だと思います。

私は、今までの人生のなかで、本当に誠実に生きてきながら、幸福に恵まれず不幸や苦労ばかりを背負っている人を何人か見てきました。逆に、全く無責任でいい加減な生き方をしていながら、常に幸運に恵まれ幸福な人生を歩んでいる人も知っています。

すべて、神の気まぐれなのでしょうね。

T.M.

自省録のようなもの / ひでおみ

苦難

もしかすると自分の人生に起こる色々な出来事や、今置かれている状況っていうのは自分にとって一番必要な学びなのではないだろうか。

人間っていうのは難しい状況に陥るととかく嘆いたり、悲しんだり、自分の境遇を呪ったりしがちなんだけど、真の自分自身である魂の成長という観点から見ると、これほど望ましい状況は無いといえるのではないか。

人生は一瞬だが魂は永遠と云われているのだから、まっすぐに状況を受け入れてすべてを経験すること、それこそが生きていることの意味ではないか。

世界の理不尽さ

ソマリアやイラクやアフガニスタンの人達を例に出すまでもなく、世の中にはなぜあれほど悲惨な状況の中を生きなければならないのかと思い、神が存在するのならなぜ放置しているのかと思えるが、魂の旅路においては彼らはまさに神に近づく最短のルートを通っていると言えるのかも知れない。

そう考える以外に世界の理不尽さを神の摂理の上から説明できる方法はないように思える。

天理教における「たんのう」 / ひでおみ

「たんのう」とは

「たんのう」という言葉は天理教独特の言葉だと思いますが、教内では足納と書く場合もあります。

そして意味するところは……自分の身に降りかかる全ての出来事に対し、それを心の成人を促してくださる親神の思し召しと受け取り、満足と感謝の念を持って通る生き方を指して「たんのう」といいます。

何事も「成って来るのが天の理」と受け取るが良い、「不足は切る理、たんのうはつなぐ理」といったおさしづもあります。おさしづに書かれている身上事情の願いごとに対する答えの大半は、「たんのう」しなさいという答えです。

現在の天理教は心使いを直せば病気が治るとか、心定めという名のお金を支払えば事情が解決するといった現世利益を求める宗教になり下がっていますが、本来の教えはそういった次元の低いことではなく(中山みきさん在世当時は身上事情の相談は仕事場へ回れと言われ、飯降伊蔵さんが答えていました。)自分の身に何がふりかかろうともそれに負けずに生き抜く強さを身につけ、生きながらにして生まれ変わる教えです。そしてその教えの真髄がまさに「たんのう」という教えです。

私自身の「たんのう」の理解は、たんのうとは堪能だというふうに思っています。つまり味わうということです。人生において何事が起ころうともそれを味わい堪能する。それこそが生まれてきた理由だと思うのです。

神に委ねること

また、「たんのう」という言葉はイエスの次の言葉とつながるように思えます。

「父よ、できることならこの杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。

しかし、わたしの願いどおりではなく御心のままに」

ゲッセマネの祈りと呼ばれる言葉ですが、イエスは自分の身に何が起ころうとも全てを神に委ねています。「たんのう」という教えの核心部分は委ねるというところにあると思います。

分ち合うこと

今も餓えに苦しむ子供達がいる。爆撃に怯える人々がいる。

それは因縁が悪いのではなく、他人という存在などではない私たちの一部である誰かが「たんのう」する為に生まれてきていると思えるのです。それはその経験を分かちあうことにより、人間という種族全体として魂を向上させてゆくためです。

人間の中には自分だけ魂の向上をさせることができればそれで良いと考え、社会から離れ修行する人達もいるようですが多くの場合道を踏み外してしまうように見えます。それは分かちあうことをしないからだと思えます。

「互い立てあい助け合い」という言葉の意味は単に助け合って良い社会を作りましょうといったスローガンではなく、もっと深い意味があるように思います。

解題 / きはら

原著作について

上記は、『縄文魂』> 2005年11月 に置いてあった 「自省録のようなもの」という文章と、同じく 2006年7月 に置いてあった「天理教における「たんのう」」とい文章の写しである。著者は「ひでおみ」さん。

『縄文魂』のブログは何時の間にか消滅した。

正確な複製ではなく、きはらの責任において、著者の意図を損ねないと思われる範囲で、ところどころ言い回しを修正したり、体裁を変えたりしている。

こういう事をして良いのか、と言うと、良いのである。これは、著者自身が認めている(あるいは推奨さえしている)「分ち合い」の一つの形だ。何故なら、ひでおみさんは、『縄文魂』のウェブログを クリエイティブ・コモンズの「帰属 - 同一条件許諾」ライセンス の許に置いて公開しているからだ。このライセンスは、大まかに言うと、原著者を明示して、原著者と同じ条件で公開するなら、自由に複製・改変して良い、というものだ。

用語解説

後の方の文章中には、天理教独特の用語がいくつか使われている。そのままでも意味は通じると思うが、念のために、簡単に解説しておく。

「り」と読む。理法。法則。

不足

不平不満。

おさしづ

教祖(中山みき)および本席(ほんせき、飯降伊蔵)による口述の教えを側の人が筆録したもの。

『おふでさき』(教祖自らが筆記した教えの書物)、『みかぐらうた』(教祖が教えた「おつとめ」の地歌)と並ぶ三原典の一つ。

「刻限のさしづ」と「伺いのさしづ」がある。前者は親神がその時々に応じて神意を述べられたもの、後者は人間の側から伺い(質問や願い)を立てて親神の答を得たものである。上記の文章では、主として、本席による「伺いのさしづ」が念頭に置かれている。

身上

「みじょう」と読む。病気や怪我など、身体的な難儀・不自由。

事情

身上以外の難儀・不自由。家庭不和、仕事の失敗、人との争い、等々。

中山みき

天理教教祖。

飯降伊蔵

「本席」。教祖の篤い信頼を受け、親神の言葉を取り次ぐ権能を与えられていた。

2006年8月 / 2010年10月 保守

最終更新日 : 2011-01-19